教材づくりで大切にしていること
教材づくりで大切にしていること
2021.06.14
最初に外国語としての日本語の教科書シリーズ『Mirai』の共同執筆に携わったのをきっかけに約30年、さまざまな形で教材作成に関わってきた。30年もやってきたのだから、教材として書いた読み物や会話は数知れない。教材として何かを書くために気を付けていることがいくつかある。細かい点はさておき、大きい点は次の3点である。
実際書いているときには、この3つの点は絡まり合って、どの点を意識しているのか、はっきり区別をつけがたいので、重複することもあるかもしれないが、一つずつ詳しく書いていきたい。
生徒の世界を広げる
日本語を勉強しているうちに、気が付いたら自分の知らない世界について興味深いことを学んでいた、と生徒が感じるなら、その生徒はとても得をした気になるだろうし、おもしろいからもっと日本語を勉強してみよう、という気持ちにもなるだろう、と思うのだ。それが1の点をめざす所以である。そのためには、本物の情報を扱うことが条件となってくる。それで、もっとおもしろい情報はないか、とリサーチに励むのである。
2番目の点については、そのコネクションが自分の世界をふり返る良き機会となるようなものでなければならない。まだ駆け出しの頃、深く考えずに書いたものを提出したことがあった。すると先輩に「この読み物を生徒が読む理由は何なのか」と問われた。生徒がこれを読む、あるいは学習する意味は何か。それをはっきり意識して書かなければならないということだ。これは1の点にも繋がっている。ただ先生が読むように指示したから、教科書に出てきたから、という理由で読む従順な学習者もいるかもしれない。しかし、その学びはあまり深くはないだろう。自分の世界と何の接点もなく、時間が経てば頭に何も残らない、試験勉強のようなものではないだろうか。実在する人物を取り扱い、この世界に実際に起こっていること(起こったこと)を取り上げるからこそ、自分の知っている社会・習慣・価値観などと比べ、考察をすることが可能になり、意味を持つ。
そして、3番目の点についてだが、日本語能力がビギナーレベルでも、彼らの知的レベルは年齢相応であり、あるいはそれ以上のレベルであることも多い。内容の単純なものばかり提供していたのではすぐに飽きられてしまう。使用する日本語はビギナーレベルでも、学習内容は彼らの知的興味を満たすレベルにまで引っ張り上げたい。それには、母語で表現・発表させる機会を持つことも重要な言語学習の一段階だととらえている。
彼らの知的興味を引き出すためにも、本物を使う、実在する人を取り扱う、ということは大変有効である。本物であるからこそ、学習者は興味を抱き、共鳴したり、比較したり、見習おうと思ったり、あるいは批判的な視点で見たりすることに意味が生まれる。実在する人だから、その人の言動や信念を通して、人生という大きな器の為の学びの機会にすらなりえるのだ。
トピックを広げ、深める
一つのトピックから色々な方向に発展させることは、教材を書く、あるいは教案を考える時に、一番ワクワクする段階である。その人物の背景として、その時代・その土地の価値観、流行しているもの、社会現象などが自然と生徒の目に入り、視野を広げていくことも可能になってくる。昨日まで知らなかった世界について、今日はおもしろい何か知っている。それがさらなる興味を呼び、関連事項のリサーチにつながったり、他教科や課外授業につながったり、さらには生徒自身の社会活動や生涯学習にもつながると信じている。
その一例を挙げてみたい。
くりっくにっぽんの「ことばの力」シリーズで、福島在住の中学生によって書かれた「福島へ」という詩を継承語学習者のクラスで使った。この詩のことはご記憶の方も多いことと思う。この授業は予想をはるかに上回り、色々な方向に広がった。詳しくは「めいきんぐ授業」(URL )にその実践報告を載せていただいたが、ここではその広がりを大きく分けて縦軸と横軸にまとめて簡単に紹介したい。
縦の軸は、その詩が書かれた背景として2011年に福島で起こったことを学び、そこからいろいろな環境問題に発展させた。自分の身の回りの環境問題から、世界で何がおこっているのか、と視点が広がり、環境問題から世界の貧富の差や貧困における子供達の人権問題にまで発展した。また自国オーストラリアの先住民が訴えている環境問題と日本の環境問題との関連にも触れた。
横軸は、詩という形の文学にふれるという軸。「福島へ」だけではなく、子どもたちが書いたユーモラスな詩を楽しんだり、有名な詩を朗読したり、自分の好きな詩や歌詞を持ち寄ってシェアーしたりした。そして最後には実際に自由詩を書いてもらったが、詩を書くことは心の中を見つめ、それを他者に向けて言葉で表現することだ。この一連の活動でクラスのメンバーがお互いもっと深く知り合う機会にもなった。
このような学びの広がりは、単に文法事項を教えるために人工的に創作された読み物を読むのとは比べ物にならない。本物から学習者の視点を広げ、興味の種を植え付ける。世界で過去に何が起こったのか、今何が起こっているのか、日本語の授業でできることはほんの少しかもしれない。でも日本語の授業が「グローバルな視点の入口」になれば素晴らしいと思う。「入口」を示すことができれば、地球市民を育てるということの第一歩になるのではないか。
さらに、本物を使うことで、「日本ではこうだ」「日本人はこうする」というようなステレオタイプ的な観念を防ぐこともできると思う。本物の人物を取り上げる中で、学習者は、日本文化というひとくくりの文化の中の「個人の文化」に触れることができる。そして、そのことにより学習者は文化・習慣の多様性に気づいてくれるのではないか。
本物を使うときの注意点
本物を使う事は上述したように多くのメリットがあるが、本物だからこそ注意しなければいけないことがある。一つは時と共に情報は変わる、ということだ。5年前に流行していたものが今では新しいものにとって代わられている、ということも少なくない。しかもそのスピードは年々増加傾向にある。
この変化に対応するための対策はいくつかある。その出来事が起こった時期が重要である場合、「今年」「去年」という書き方ではなく、「xxxx年」と書くことで、その出来事がいつの出来事か明らかになり、その教材そのものがすぐに老化することを少しでも防ぐことができる。
特に、データや記録を含むものは、このような配慮が必要になるかと思う。そして「xxxx年にはこのような情報があった。今現在の時点ではどうなっているかリサーチをしよう」という活動を提案することで、その時間のギャップを埋め、しかも情報の移り変わりも学習者の視野に入ることになる。
時と共に変わる題材は多い。しかし、変わらないものもある。例えば、池田樹生さんの記事はその変わらないものの一つである。もちろん、現在の樹生さんはもう高校生ではない。だが、あの高校生の時の樹生さんの生き方・ことばには変わらぬ輝きがあり、読む人の感動を呼ぶ。さらに幸いなことに、樹生さんのその後の活躍をネットなどで調べることもでき、「樹生さんの今」につなげることができる。
時を経て生きる題材
最近、樹生さんのホームページを開けてみた。高校生の時の面影を残しながらもたくましく成長なさった樹生さんの笑顔と、「自分らしく生きる」という言葉が目に飛び込んできた。涙もろい私は既にそこで涙腺がゆるくなった。アスリートとしてだけではなく、社会貢献活動に、モデル活動に、講演に、と意欲的に取り組む樹生さんの姿に改めて感動した。
「子供達にはダイバーシティなマインドを」というタイトルのページに以下のような文があった。
「街中を半袖半ズボンで歩いていると子供達が私に指をさしながら「あの人、手と足が無い」と親御さんに言っている姿をよく目の当たりにする。
私はそれが良いと感じてます。
海外でも同じように街中を半袖半ズボンで歩いていても目があった人達はウィンクをしてくれたりグッとポーズを送ってくれる。
しかし日本では親御さんが見てはいけないとシャットダウンしてしまう。」
https://ikeda-mikio.com/social-contribution/
この文を読んだとき、再び、この人のことをたくさんの生徒たちに知ってほしい、と強く思った。トレーニングのこと、パラリンピックのこと、障害者のこと、差別について、義手・義足について、福祉のあり方について、等々、いろいろな分野に生徒の興味を引き、リサーチしたり話し合ったり一緒に考えてもらう活動ができるのではないだろうか。そうして、生徒一人ひとりが「ダイバーシティなマインド」を持つ人に成長していくことの助けになれれば、と強く思った。
こうして本物の人々のことを教材として書きたい、という思いは尽きるところがない。これがまさに本物を使うことの力である。
ニシムラ・パーク葉子 | |
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フリーランスライター | |
元オーストラリア・NSW州教育地域社会省中等教育部アジア言語学習推進プログラム支援オフィサー |