My Way Your Way


ことばの力

vol.1

日常を切り取る

万象(ばんしょう、高校2年、17歳、山梨県在住)

2013.02.12

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万象さんは2012年8月に行われた全国高校総合文化祭*「詩のボクシング」**で、1、2回戦を勝ち進み、決勝戦を制した。1、2回戦では用意してきた 詩を詠むが、決勝戦では審査員からお題が出され、そのお題で詩を即興で詠む。万象さんのお題は「ダム」。ダムと関連づけて自分の心の内を表現した万象さん の詩に会場はどよめきで包まれた。

高校の文芸部で活動する万象さん。日々どのようにことばと向き合っているのだろうか。

*全国高校総合文化祭(All Japan High School Culture Festival):高校生の創造活動の向上と相互の理解を深めることをねらいとして、芸術文化活動の発表を行う高校生の祭典。演劇部門、美術・工芸部門、郷土芸能部門、写真部門などに分かれ、毎年開催される。文化庁などが主催している。

**詩のボクシング:ボクシングのリングに見立てた舞台で、2人あるいは2団体が詩を朗読し、どちらの詩が観客の心に届いたかを競う。
詩のボクシング公式サイト http://www.jrba.net/


実は、「詩のボクシング」に出場するまで、詩を作ったことはなかったんです。ふだんは、短歌と小説を書いています。

文芸部の顧問の先生から、「詩のボクシング」のことを聞いて、おもしろそうだなと思って出ることにしました。もともと追い込まれてから書くタイプではあるのですが、なかなか詩が書けなくて苦労しました。このときも前日に書いて、東京に向かう電車の中で読んで直して、会場に行ってからもまだ修正していました。

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決勝戦では、審査委員の楠木さんが「お題は『ダム』!」と言って間髪いれずに(試合開始の)ゴングがなりました。そのとき、谷川俊太郎作詞の合唱曲『春に』の一節、「心のダムにせきとめられて」が頭に浮かびました。中学校の合唱コンクールでこの歌を歌うクラスがすごく多かったのでよく覚えていたんです。これをヒントにしてどうにか詩をつくろうと思って、最初の1行を詠みました。
そこからは、瞬間的に、頭の中で長いものを書いて短く圧縮して、また書いて圧縮して、を繰り返しました。どんな詩を詠んだか全く覚えてません。でも、今改めてその詩を読むと、よく作ったなって感心します(笑)。

総文祭「詩のボクシング」決勝戦。リングで「ダム」を詠む万象さん。

「ダム」

誰かがいった
ぼくの心はダムにせきとめられていると
ぼくは自分のなかを見た
ダムはない
水たまりしかなかった
ぼくはなかをみた
本当は水たまりなんかじゃなくて
もっと深い穴がそこにはひろがっていて、
もしかしたら中をのぞいたら
ダムよりももっともっと深いそんなものが存在するのではないか
ぼくはなかをのぞうことした
ぼくは立ち止まった
ぼくは中をのぞくのがこわかった
ぼくはただ自分をおそれていた
ぼくはただ単に自分のなかに水たまりをつくろうとしていただけだった
ぼくは中をのぞくのがこわかった
ぼくは中をのぞいて、自分が本当に本当に水たまりだということを
認めたくなかっただけだ
ぼくは水たまりをのぞけなかった
もしもし本当にそれがぼく自身で
もしもそれが靴の底もぬらさないような水たまりだったら
ぼくはどうやって生きていけばいいのか

詩は何でもあり

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総文祭で優勝したので、2012年10月に横浜で開かれた詩のボクシング全国大会に出場させてもらいました。この大会には、地区大会で優勝した人たち16人が出場しました。高校生はぼくを含めて2人で、あとは社会人でした。

いろいろな詩を聞いて、すごい詩があるなと思ったし、詩の力も感じました。でも、ぼくにそういう詩を作れるとは全く思わない。もちろん大会に出るにあたって詩は作ったんですけど、ぼくの中では、それは詩じゃないんです。現に、全国大会では1回戦で負けてしまいましたし...。

ぼくにとって詩を作るのが難しいのは、自由度が高すぎるということがあります。短歌は31文字で定型にあわせるというルールがあるのに、詩は何でもありですから。音楽でいうと、ロックなのか、クラッシックなのか、ジャンルを定めないまま、演奏しろっていわれているような感じですね。ロックというジャンルが決まっていれば、その中で、じゃあプログレやろうとか、パンクやろうとか決めて、自分の演奏ができたり、曲が作れたりするわけです。決められた枠のなかで自由にやるほうが自分にはいい。
でも、すごいと思える詩を作る人はちゃんと自分でジャンルを作っています。ぼくには、自分のジャンルが作れていないんですね。

ぼくは短歌も詩も、頭のなかで小説つまりストーリーを組み立てて、説明的なところを抜いて作っていきます。つまり、小説が全体だとしたら、そこからことばをどんどん抜いていったものが詩であり、短歌です。

短くなればなるほど、一つのことばにかかる比重がどんどん増えてきます。短歌ではすべてのことばが重い。でも、詩は重さが量りにくいと思います。

それぞれの魅力

短歌は、ひとつのものに焦点をあてて、その周囲のものを重ねるんですが、31字しかないから、できるだけ削っていく。小説は、焦点をあてたものとその周辺をすべて入れて、起承転結でストーリーを作っていきます。
短歌と小説の間が詩だろうと思っていました。でも、最近になって、詩は、中間なんかじゃなくて、もっと違う、とんでもないところにあるのかなっていう気がしています。いまはまだよくわからないのですが...。

短歌は生活の一部

短歌も小説も高校で文芸部に入ってから書き始めました。最初、自分に短歌が作れるかなと思ったりもしましたが、結構できるものなんですよね。書き方やルールを学んでから書くのではなくて、まず書いてみる、それを改善していくのがぼくのスタイル。先輩たちからも、頭でっかちになっちゃだめだとよく言われます。

単語を書いたカード100枚をシャッフルして、1枚を選んで、そこに書かれている単語をお題にして短歌を作るというのをよくやります。一つ作ったら、その単語を消して、また新しい単語を書いて、シャッフルして、短歌を作る、というのを繰り返すんです。落語に三題噺*ってありますけど、それの亜流です。おもしろいですよ。

短歌を作ることで、自分のことばのバリエーションが増えたと思います。部活では、決められたお題で一人ひとりが短歌をつくったら、それをひとつにまとめて、どれがいいかをみんなで投票します。それで、一つずつここがどうだとか、ああだとかみんなで批評していくんです。そういうのをやっていくうちに、語彙が増えたり、無駄な表現をなくせるようになったりするんですよね。

今では、何か出来事があったときはもちろん、暇なときにも短歌を作ります。短歌は生活の一部になってますね。

理科室に 忘れたものが あるならば 塩酸の手よ 亜鉛を救え【お題:塩酸】

かたばみを 踏みつけはまる 鋼鉄の 檻の中なら 楽しいかしら【お題:鋼鉄】

*三題噺(さんだいばなし):落語の形態のひとつ。寄席で演じるときに、観客から三つ題目を出してもらい、その3つを折り込んで即興で演じる落語。

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表現したいこと

短歌には驚く短歌と、そうでない短歌があると思うんです。
例えば、石川啄木が詠んだ、

東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

は後者です。

驚く短歌はというと、ぼくの好きな歌人、斉藤斎藤の

雨の県道 あるいてゆけば なんでしょう ぶちまけられて これはのり弁

だと思うんですよね。

「道路にのり弁」、びっくりですよね。
ぼくはどちらの歌も好きなんですが、驚く短歌を作りたいんです。
異種をうまく取り入れる、そんな短歌を作れたらいいなあと思います。

そのままの現実を書きたい

ぼくはスガシカオさんが書く歌詞がけっこう好きなんです。普通の歌だと、クライマックスで女の子に告白したりするんだけど、スガシカオさんだと、女の子にふられて最終電車に乗って寝るみたいなところがあるんですよ。それが現実だって思うんです。

小説では話がうまく進みすぎることがあまりに多いように思います。ミステリー小説は大抵犯人が見つからなきゃいけないし、恋愛小説は辛いことがあってもある一定の幸せは手に入れなきゃいけないし、地球は大抵守られなきゃいけない。でも、現実はこうじゃないだろうという気持ちが強いです。

こう思うようになったきっかけは、中学生のとき、ある芥川賞作家のエッセーを読んだことです。現実でオチがつかないんだったら、小説でもオチを書くなという内容でした。オチをつけた瞬間その話はつくりごとになってしまうっていう...。

衝撃でした。そうかっ、と思ったんです。

主人公が苦難に直面していても頑張って生きていこうとしている、前向きに生きていこうと思っているのは「人」であって、状況が前向きになったわけじゃない。だから、収集がつかないことはつかないこととして、後ろ向きなことは後ろ向きなこととして、書いていきたいと思っています。

新しい自分を発見

文芸部に入って、実際に文章を書いてみたら、意外と文章を書くのがうまいことを発見しました(笑)。文章を書くとき、意外とまじめになることも発見でしたね。ふだんはふまじめなやつなんですよ、ぼくは。人と話すと、とにかくおもしろいことを言いたいって思うんですよね。でも、文章では高校生対象のコンクールで賞をもらったりして、わりと頑張れてる感があります(笑)。

それから、文章を書くのが好きだったんだというのもわかりました。

小学生のとき

よく考えてみると、小学生のとき感想文をよく書きました。学校の課題だったり、両親からさせられたり...。感想文を適当に書くと母親がすごく怒るので、必死でやりました。でも、あれで随分文章力が上がったんじゃないかと思いますね。それから、両親に言われて、江戸小話の要約をよくやったりもしました。これが今の教養の素地になったと思っています。

泣きながら感想文を書いてましたけど、本を読むことも、文章を書くことも嫌いにはならなかった。やっぱり、罪を憎んで人を憎まず、ですよ。感想文を憎んで本を憎まず。感想文を憎んで母を憎まず(笑)。

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通っていた小学校を訪れて、「意外と小さい。もっと大きく感じてたんですが・・・」と語る万象さん。

「ことば」にできること

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生きていくにあたって、何かを伝えるのは必須ですよね。相手にわかってもらいたいと思っていることがあったら、それを100%わかってほしいので、ぼくはことばを使っています。無用な誤解を与えるのはすごく損なことですよね。自分が思っていることを伝えたうえでのいさかいは仕方がないと思うんですけど、自分の思ったことが十二分に伝えられていない状態でのいさかいというものほどバカらしいことはないと思うんです。

周りを見ていると、そういうことがあります。話し合ってもいないのに、あいつはだめだっていったり...。それはあまりにもあほらしいと思うんです。
だから、ぼく自身は特に意識して思っていることを伝えようとしています。

今の夢

大きなスパンの目標としては、小説で賞をとることです。
今の目標は、長い小説を1本仕上げること。今まで最長で原稿用紙30枚ぐらいなので、200枚~300枚を書きたいと思って、書いているところです。1本書いたら、高校での小説はやめにします。3年生になったら、受験勉強に集中します。そして、大学に入ったら、また書き始めようと思ってます。

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好きな本。『斜陽』と『孫氏』。繰り返し読んでいる。太宰の文章が好きなのと、『斜陽』の長さだと、読み終えたときに最初を忘れているので、また新たな気持ちで楽しめる。兵法について書かれている『孫氏』は最初のほうはかなりいいことを書いてあるのに、だんだんバカらしくなってきてオチがきいているところがいい。


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