公益財団法人国際文化フォーラム

「ことば」という視点から言語教育を再構成する

大津由紀雄(明海大学教授)

languageという語の二つの使い方

英語圏で言語学入門に類する講義を受けると、まずlanguageという語の二つの使い方について教えられることが多い。一つの使い方ではどんなときも、language と無冠詞で、複数語尾も伴わない。それに対し、もう一つの使い方では a / the / this / these / ourlanguage(s) のように冠詞類を伴ったり、複数語尾を伴ったりする。簡単に言ってしまえば、最初の使い方は抽象名詞としての使い方、二番目のほうは普通名詞としての使い方である。

Languageという語の、この二つの使い方はことばが持つ、二つの重要な性質を反映したものである。説明の都合上、二番目のほうから考えると、この使い方では、日本語とか、英語とか、日本手話といった、一つひとつの言語(これを「個別言語」と呼ぶ)を指しているのである。これは人間が身につけることができることばは、それぞれの「個別性」をもった(個別)言語であるということを示している。

最初の使い方に戻ろう。抽象名詞としてのlanguageは個別言語がもつ個別性を捨象して、「ことば」という抽象概念を捉えたものだ。そういう抽象化ができるということは、個別言語はそれぞれの個別性を持つと同時に、共通の基盤の上に築かれたシステムであるということが前提となっている。

その共通の基盤の性質を「普遍性」と呼ぶ。

個別性と普遍性の連動

ここで大切なのは、個別性と普遍性は無関係なものではなく、連動しているという点だ。例えば、日本語でも、英語でも(そして、他の言語でも)、語をある一定の規則にしたがって一列に並べる(「語順」)という点、語がいくつか集まってまとまり(「句」)をつくるという点は共通している(普遍性)。しかし、語の並べ方、ことに、まとまりの中で、その最重要語をどこに置くかについてはばらつきがある(個別性)。簡単な例を挙げよう。【A参照】

(1)~(3)のいずれも一定の順に並んでいるいくつかの語が集まってまとまりをつくっている([ ]で示した)。これは日英語に共通した性質であるが、そのまとまりの最重要語(イタリクスで示した)がまとまりのどの場所を占めるかについては日英語でばらつきがある。(1)~(3)を見れば一目瞭然であるが、英語では最重要語はまとまりの先頭に、日本語では末尾に置かれている。

表題の「『ことば』という視点から言語教育を再構成する」は、ことばの普遍性という視点を基本に据え、「国語」教育(妙な名称であるが、とりあえずは慣用に従う)という母語教育と英語教育などの外国語教育を一体化する必要があるという主張だ。 この「一体化」にはさまざまな段階が考えられるが、まずは、「国語」と英語の教員養成課程で「ことば」という視点を明確に導入することから始め、「国語」教員と英語教員が共通の基盤に立って意見交換できる状態を作り出すことから始めるのが現実的であろう。

A

(1)a. [ eat a hotdog ]
b. [ ホットドッグを食べる ]

(2)a. [ in the park ]
b. [ 公園で ]

(3)a. [ books on English education ]
b. [ 英語教育の本 ]

一体化の必要性

なぜ一体化する必要があるのか。一体化しなければ、母語の力を十分に活用することができないし、外国語をきちんと身につけ運用することもできないからである。ここで、ゲーテの名言を思い起こしていただきたい。

Wer fremde Sprachen nichtkennt, weiss nichts von seinereigenen.

「外国語を知らない者は自分自身の言語について何も知らない」という意味である。つまり、外国語を学ぶことでことばの構造や機能を認識し、そのときに初めて母語の構造や機能にも気づき理解が深まるのである。例えば、私たちは日本語を使っているが、構造や機能を理解して使っているわけではない。何か比較対象があって初めて、客観的に見られるようになるのである。

この考えを日本の学校教育にあてはめるとどうなるか。できるだけ簡潔に説明しよう。まず、小学校段階で、児童の母語である日本語を利用して、語順の重要性や最重要語の配置などについての認識を深めておく。この認識を筆者は「ことばへの気づき」と呼んでいる。日本語では比較的語順の制約が弱いといわれているが、ないわけではないことは(4)と(5)を比べればすぐわかる。【B参照】

ただ、この例はあまりにも単純なので、語順の重要性に気づかせるには十分でないだろう。その場合、つぎの例を取り上げてみるのもおもしろい。

(6)~(8)は同じ語でできており、語順が違うだけだ。ところが、(6)では自転車に乗っていたのは健太郎でも、泥棒でもありうるが、(7)では健太郎、(8)では泥棒ということになる。なお、この例は「修飾」という概念を児童に気づかせるにも好都合であることを書き添えておく。

ことばへの気づきの例をもう一つ挙げよう。【B参照】

(9)は「温泉」と「まんじゅう」という二つの名詞をその順に並べて作った複合名詞である。ここで、同じ二つの名詞を使いながらも、その並び順を逆転させて複合名詞をつくってみる。

読者にとって(10)は初めて耳にした複合名詞であろうが、その意味はすぐに理解できる。小学校低学年の児童も同じだ。その意味するところを絵に描いてもらうと、《(リンゴ風呂のように) 湯船にまんじゅうが浮いている温泉》、《マグマがあんこで、地面がまんじゅうの皮でできている火山にできた温泉》などなど、傑作がたくさん出てくる。

(9)と(10)を比べると、複合名詞では二番目の名詞が意味的に優勢となることに小学生でも気づくことができる。

ことばへの気づき育成の初期段階に母語を利用するのは、直感が利くからである。日本語を母語とする児童なら、(4)~(10)について日本語の表現としての適格さや解釈の可能性などについて直感的に判断できる。

こうして芽生えた、ことばへの気づきを利用して、英語の学習を始める。学校英語教育は英語が使える生徒を育てない、ときわめて評判が悪いが、その根本的な理由はことばへの気づきが育成されていない状態で、外国語である英語を学ぼうとするからである。語順の重要性にきちんと気づいていれば、(1)~(3)のような日英語の語順の基本的差異の認識だけすれば、英悟の文を作ることができる。あたりまえのことのように聞こえるかもしれないが、この基本が身につかないまま英語嫌いとなり、その状態で大学に入学してくる学生も少なくないのが現状である。 「ことば」という視点を中心に据えて言語教育を再構成することなくして、母語である日本語の力も外国語である英語の力も活用しきれていない現状の改善はない。日本人の多くがことばの根無し草状態になってしまうという意味で破綻への道を歩むことになるということにそろそろ気づいてもよいのではないだろうか。

B

(4) 太郎が歩いている
(5) が太郎歩いている
(6) 健太郎が自転車で逃げた泥棒を追いかけた
(7) 逃げた泥棒を健太郎が自転車で追いかけた
(8) 自転車で逃げた泥棒を健太郎が追いかけた
(9) 温泉まんじゅう
(10)まんじゅう温泉

※事業報告書『CoReCa2013-2014』(2014年10月発行)に掲載。所属・肩書きは掲載時のもの。