11-014
月竹/長春市第十一高等学校 (中国吉林省)
Yuezhu/Changchun No. 11 High School (Jilin, China)
月竹长春市第十一高级中学 (中国吉林省)
本人が書いた文/Original text本人原文본인이 쓴 글
肉親の情
My beloved Family
亲情
わたしの父
My Dad
我的父亲
熟睡中のおじ
My Uncle sound asleep
熟睡的舅舅
わたしの弟と妹
My Brother and Sister
我的弟弟妹妹
わたしの友だち
My Friends
我的朋友
わたしの大親友
My Best Friend
我最亲密的朋友
もう二度と友だちになれない友だち
A Friend never to be a friend again
一位不再是朋友的朋友
  私の世界
   わたしの世界では、二つの情念がまるで二本の柱のように天地を支えています。もし一本でもたおれたらわたしの世界はくずれてしまいます。
   わたしには女の子として自慢できるところはありません。きれいな顔、すてきなスタイル、すばらしい歌声などとはまったく縁がありません。でも、そういう人たちにくらべて、わたしは幸せだと思います。わたしは外見には気をつかわないので、その分の時間をつかって家族や友だち、そして自分の世界を大切にすることができます。

写真1:世界には次の世代へと伝えられていくものがあります。それは肉親の情です。よく、年配の人たちはいちばん失敗した人たちと思われてしまいます。でも、ほとんどの場合、かれらはもっとも罪のない人たちです。年寄りで時代遅れだからという理由で、かれらの長所はよく無視されます。わたしの両親はよく年配の人たちの欠点について話し、批判します。わたしと同じ年ごろの人たちもかれらのことを軽蔑しています。でも、おじいちゃん、おばあちゃんたちのおだやかに枯れた顔にはしわだけでなく、智恵や愛情もあることに気づいている人がいるのでしょうか。もしかしたら、わたしたちが年をとってから、やっとわかるのかもしれません。
(父方の祖父母と母方の祖父母)

写真2:わたしは父の世代の人たちといっしょにいるのが好きです。かれらは成功していて自信があって、子どものように元気で若く、また老人のように智恵があり落ち着いているからです。おじさんたちは成熟していて、自分にほこりをもっていますが完ぺきではありません。大人ではありますがスーパーマンではないからです。おじさんたちには感謝しています!わたしたちに美しい世界をつくってくれた人に感謝します!
(わたしの父)

写真3:わたしはぐっすり眠っている人を観察するのが好きです。人は夢の中で心のとびらを開くからです。だれでも必ず本当の自分をさらけ出します。どんなに見栄をはっていても、疲れたときには本当の自分が出てきて、うれしそうな笑顔をつくることもできず、眉間にしわをよせるでしょう。(寝言で)ののしることさえあります。おじさん!まさか本当はこんな人だったの?
(母方のおじ)

写真4:わたしは弟と妹が好きです。でも、本当は自分自身が好きなのです。弟と妹のなかにはわたしの姿があります。かれらはわたしで、わたしはかれらです。自分がむかし来たのと同じみちを歩いています。かれらの笑い顔は、むかしのわたしを思い出させます。わたしたちの体のなかには同じ血が流れているのです。わたしたちは肉親の情というくさりでつながっています。あなたたちはわたしの家族であり、肉親です。
(私の弟と妹)

写真5:いつのころからか、わたしの男友だちを本当にかっこいいと思うようになりました。どこから見てもかれらはみんな完ぺきで、欠点がないことが最大の欠点といえます。かれらが楽しいとわたしも楽しいし、かれらがつらいとわたしもつらいです。わたしたちは友だちだからです。友だちと一生いっしょに歩み、苦楽ともに分かち合う、これは男女の愛情よりも真実の愛で、肉親の情以上に親密なものです。これからどんな困難があっても、手を取り合っていきたいと思います。
(私たちのクラスの男友だち)

写真6:わたしは男っぽい性格なのでほかの女子とはだんだん離れてしまいしたが、あなたはいつもわたしのそばにいてくれます。遊んだり、さわいだり、笑ったりしたあとも、あなただけがわたしの悲しみと寂しさを知っています。わたしもプライドがあるので自分の悲しみや寂しさを認めたくはありませんが、そんな時もあなたはそっと私の強情な心をなぐさめてくれて、わたしのプライドを保たせてくれます。あなたに会えたことを神様に感謝します。
(私の美しい“妻”)

写真7:ついにあなたの立ち去る背中を撮りました。タイトルは「悲しい別れ」。わたしは今でも、どちらが悪いのかわかりません。わたしたちは二度と仲直りしないでしょう。まさかあなたとの友情がこんなにもろいものとは。いままでのことは全部見せかけだったのだろうか。本当はわたしが悪いとでもいうのでしょうか。過去にもどりたい。
(もう二度と友だちになれない友だち)
   まるで王家衛監督が製作した映画「2046」のように、わたしの世界は絶望的に美しい・・・。

日中の教育についてのわたしの意見

   目の前の写真を見て、わたしたちは同じ高校生なのにまったく違うことがわかりました。わたしたち中国人は、授業中えりを正してきちんと座り先生の話をじっときいていますが、同じ年ごろの日本人は何をしているのでしょう?わたしたちのまじめな先生は黒板にきちんと正確に練習問題の計算を書いているのに、日本の先生は何を教えているのでしょうか?数枚の写真を見ただけでははっきりとわかることではないのでしょうか?
   きちんとした統計ではありませんが、日中の基礎教育には二年以上の差があるといわれます。つまり中国の高校一年生が日本の高校三年生のクラスに入っても、優秀な成績を上げることができるということです。また、日本の高校生が有名大学を受けるために、はるばる中国に来て中国の高校に入ったり、あるいは中国の高校生が国内で勉強のプレッシャーにたえきれずに外国に留学したりすることもあります。
   なぜ、こんなに大きな違いが生まれたのでしょうか?わかりません。どちらが良くてどちらが悪いのかくらべる方法はありません。これまでの国際オリンピック大会(訳注:数学、物理、化学の各部門で2004年の成績は中国が1位)の成績から見ると、中国が人材を育成しているのは確かです。でも、おかしな現象も起きていて、清華大学を卒業した学生が肉を売ったりしているのです。その学生はごく普通の能力しかもっていない、つまりテストの成績はよくても実践力がない奇形児だといえるでしょう。日本の学生の社会的能力は確かに一流ですが、いつかロボットの時代がきたときに、そのロボットが動かなくなったら、社会的能力はあるけれど学歴がない人(訳注:日本人)はどうやって生きていくのでしょうか?わたしは決して外国かぶれではありませんし、また自分と異なるものを排除するわけでもありません。わたしはとても客観的です。
   もし道徳教育のときに眠ってしまう人が一人少なくなれば、その分、一人の科学者が生まれるでしょう。受験教育のなかで少しでも実践的な体験ができたら、肉を売る高校生は一人減ることになるでしょう。
   現在、中国では外国人の先生の授業を受けたいという学生が増えています。外国人教師は、学生の知識だけではなく社会的能力も育成してくれるからです。授業も決まりきった雰囲気ではありません。でも、中国はいまだに発展途上国であり、すべての先生が学校でこのような授業を受けることはできません。人口がとても多いというこの国の状況では、受験教育を避けることはできません。基礎教育や教育体制は国によって違います。完ぺきな教育制度は不可能でしょう。
   道徳教育と受験教育は平行線をたどっています。いつかこの二つがたがいに交わることを期待したいと思います。

 我的世界

在我的世界中有两种情愫像两根柱子一样支撑着天地。如果一根到下,整个世界即将坍塌。
    我身上没有一个女孩值得骄傲的地方。美丽的面容,窈窕的身材,美妙的歌喉都与我无缘。可我觉得自己比她们要幸福。我不会在外表上花费心思,我有更多的空闲来爱我的家人、我的朋友、我的整个世界。

图一:世界上有一种东西是能传承的,那就是亲情。一辈辈、一代代。祖辈往往是被认为最失败的,但往往也是最无辜的。他们的优点往往被我们忽略。因为他们老了,落伍了。而他们的缺点却时时被我们提起,我们的父辈指责批评他们。我们的同辈轻视鄙夷他们。可我们谁又发现他们平和干枯的脸上充满的不只是皱纹,还有智慧和爱。或许等我们真正老了后才会明白。(我的爷爷奶奶姥姥姥爷)

图二:我喜欢和父辈们在一起。因为他们成功,他们自信。他们可以像孩子一样有活力,一样年轻。他们也可以像老者一样有智慧,一样稳重。他们成熟,他们自负,他们不完美。因为他们只是成年人,而不是超人。感谢我们的父辈吧!感谢那些带给我们美丽世界的人啊!(我的父亲)

图三:我喜欢观察熟睡的人。因为每个人在梦中都会打开心扉,不管面具下的他是谁,都会暴露无疑。不管你在外面是如何风光。劳累的你都会被无情地出卖。你不会装出满意的笑容,你会皱眉你会不安,你甚至还会诅咒。我的父辈们啊!这难道是你们吗?(我的舅舅)

图四:我喜欢我的弟弟妹妹。其实那就是在喜欢我自己。他们的身上有我的影子。他们就是我,我就是他们。他们嬉戏时跑过我曾经的足迹,他们的笑容在我的记忆中回闪。我们骨子里流着一样的血液。我们被亲情的锁链连接着。你们是我的家人,我的亲人。(我的弟弟妹妹)

图五:我不知从什么时候起觉得我的哥们儿真的很帅。无论怎么看他们都是完美的,组合能最大的缺点就是没有缺点。你们快乐所以我快乐,你们难过所以我难过。就因为我们是朋友!朋友一生一起走。我们同享受,我们共患难。比爱情更真实比亲情更贴心。还有什么风风雨雨我们携手走过。(我们班的帅哥们)

图六:我的男孩子性格让我和女生们渐渐疏远,是你一直陪在我身边。疯过,闹过,笑过后,只有你知道我的悲伤与寂寞。你曾用最轻柔的方式安慰我倔强的心。尽管我自负的不去承认,你仍会留给我勉强的自尊。感谢老天,一路上有你。(我的漂亮“老婆”)

图七:我最终捕捉到你决绝的背影。我喜欢叫它《悲伤地离去》,我至今仍不明白是谁错了。可我知道你不会再回头。难道我们之间的友谊是如此脆弱。难道以前都是虚假。难道真的是我错了。想回到过去(一位不再是朋友的朋友)
    就像王家卫缔造的《2046》一样,我的世界如此绝美……

中日教育之我见

    同是身为高中生的我们,看到真实的图片时我才看到这真正的不同.当我们正襟危坐、目不转睛地听老师讲课时。我们的日本同龄人在干什么?当我们老学究在黑板上一板一眼地演算题目时,日本的教师们在教些什么?或许这就不是几张照片能说得清楚的啦?
    具不正规统计中日两国的基础课程相差两年以上,也就是说中国高一的学生在日本插班在高三基础课程仍可达优秀。更有甚者,日本高中生为考名牌大学,远赴他乡来到中国上高中。或是中国高中生在国内受不了学习压力到外国念书。
    是什么导致这种悬殊?不得而知。孰好孰坏更无从比较。从历届国际奥林匹克竞赛的成绩来看我们培养出的的确是人才,可更大的笑话接踵而至,清华的学生毕业后在卖猪肉。可见其能力一般。又是一高分低能的怪胎。而日本学生的社会能力的确一流,可如果一天当所有事情都可以由机械来代替,或是所有机械停止运行时,我们那些有能力没深学历的友人们又如何生存?在这里我并没有崇洋媚外,更不是排除异己。绝对是我眼中的客观事实。如果素质教育中少一个睡觉的学生,或许会多一个科学家。如果应试教育中多一点实践,或许社会上就少了一个卖肉的高校生。
    现在中国学生越来越喜欢上外教课,因为外教带给学生的不仅是知识,还有能力。一种不死板的教学气氛。但学校并不能让每个老师都这样上课,因为中国仍是发展中国家。人口众多的国情让我国必须实行应试教育。而每个国家的教育基础与体制也是因国情而定。让其完美也是不可能的任务。
    素质教育与应试教育像两条平行线。但我们仍期待他相交的那一天!

close

©2004-2008 The Japan Forum
No reproduction without permission