私は多重性格がある女の子で、ある時は前向きで、ある時は内向的です。
内心は善良ですが、ちょっとそそっかしくて、ちょっと臆病です。
私は笑うことがすきで、嬉しい時は声を出してわらいます。私は自分の喜びを分け合い、人に私のその時の気持ちを伝たいです。挫けた時、私はほんの少し笑おうとする、自分を励ますために自分に勇気を与えるために
自信を取り戻し、初めからもう一度努力して成功するまで頑張ります。こちらは私の朗らかです。
日ごろ休暇になって休む時、私はいつも一人で本を見ることが好きで、ネットで雑談したり、テレビを見たりします。道で知らない人に会って道を尋ねられると、いつもたいへん緊張してしまいました。これは私の内向的です。
ある朝、私は制服を着て鞄を背負って上機嫌で歩いていました。ふと通りの大きい鐘を見て、叫びました。「まずい!遅刻する!」言うなり私は走り出しました。「キー」激しいブレーキの音「わ!」急いで止まりました。自転車に乗って通りの曲がり角から出てきた老人が素早くブレーキをかけなければ、自転車と衝突していたかもしれないです。「ちょっと…」「すみません。すみません
…」一連の謝り、老人は頷ました。「君、歩く時は…」老人が話を言い終わるまえに、私は再びかけ出しました。された老人は呆けたばかりしました。これが私のそそっかしいです。
夏休みに両親とお寺の上にはお寺まいりに行きました。歩いていると献金箱を見つけました。一枚五元の紙幣さつを取り出してつめこみました。少し歩くとまたひとつ献金箱がありました。しばらく考えて「まあいいか。」
終始一貫と思いお母さんは数元のばら銭を置いてきました。こんなかんじでどの見物ポイントにひとつの献金箱があって、自然とすべてにすこしずつ入れているとすぐにポケトの中のお金がなくなってしまいました。
こちらは私のは善良です。
小学校の時を思いかえしてみると、一度授業中に歯が落ちたことがありました。私は先生に教える勇気がなく、ずっと口の中に含んでいました。しかし、先生は問題を出す時なぜか私に答えさせようとする、びっくりしてのみ込でしまった私は一日中心配でたまりませんでした。放課後になって家に帰って両親に知らせると泣くに泣けず笑うに笑えず、私を生む年を間違えたと言いました。つまり、龍年ではなく兔年であるべきだということです。私は自分でもかつて両親が私の生まれ年を覚えまちがったのではないかと思いました。これは私の臆病です。
今私はもう甘泉外国语中学の高校二年の学生です。考えてみれば当初日本語科を選んだ理由はただお父さんの「日本語ができれば日本の原作アニメ-ションをみるぞ。」という一言で、今となってはその時の自分は本当に幼いと思いました。つまり、幼かった私はまんまと父のおいしい話にひっかかった訳であります。
私の父は日本語が分かるから、日本語の勉強においてはやたら厳しいです。中学校二年の時
私は父に日本語の3級能力試験に参加させられたが、いろいろな原因で結局合格できませんでした。これは私にとって大きなショックで、そのせいで私は日本語に対して自信をなくしました。しかし、ある出来事によって私は再び自信を取り戻すことができました。わが学校のホームステイ活動に参加して、私はある50才ぐらいの日本人を招待することになり、はじめ緊張していた私だったが彼女と交流したあと、特に「あなた日本語が上手ですね。」と言う言葉に私とてもはげまされました。私は日本語の勉強に再びに熱心に取り組めるようになりました。このあと私は何度もこのような活動に参加し、たくさんの日本人の友達もできました。日本人との交流は私の日本語の勉強にも大きな助けとなりました。
いま私はもう日本語能力試験1級に合格しました。認定書を手にした時、私の目はなみだがあふれんばかりでした。
私は今回の活動に参加できたことを光荣に思うと同時に、それを通して中国語を勉強しているほかに
少しでも中国の文化を知ってもらえればいいと思っています。