6月13日、父と母と末の妹が中国へ送還された。空港では枯れるまで泣いた。在留資格がないので日本では会えない。中国へ行けば日本に再入国できない。家族が真っ二つになって暮らすことになった。いまだ受け止めることができない。
私は中国、黒竜江省延寿の農村で生まれた。何でも屋みたいな店が1軒あるだけの村だ。9年前、母が残留孤児の娘であると日本政府が認めてくれたので、父と母と1歳下の妹と一緒に日本に来た。9歳の時だった。1年位で日本語がわかるようになった。友達もできて、みんな優しく接してくれた。父と母は朝から晩まで働いていた。
そんなときの3年前、母が残留孤児かどうか疑わしいということで在留資格を取り消された。一家の柱の父が入国管理局に収容された。大黒柱を失って、家計が傾いた。母が体調が悪いのに必死で3人の子どものために(日本に来てから末の妹が生まれた。)働いている姿を見てすごく辛かったので、私は中学をあきらめ工場で働くことにした。
昨年、働きながら学べる定時制高校ということで紹介で大手前高校定時制に入学した。何かの縁で写真部に入った。顧問の野村先生は自由に写真を撮らせてくれ、カメラも貸してくれた。大阪写真月間で初めて入賞した時も、先生の紹介で朝日新聞に自分の顔写真が掲載されたときも、すごく嬉しかったです。学校に行くのが楽しみになった。
2年8ヶ月の収容を終えて、父が入管から家に帰ってきたときは、我慢していたけれど嬉しかったです。今まで家族写真ばかり撮影してきたけれど、この時は父の写真ばかりになっていた。父が戻ってきた久々の家族生活は心から幸せだと思える時間を過ごすことができた。
それも長く続かずたった1ヶ月だけしか家族一緒に過ごせないなんて、わたしにとってすごく辛かったけれど、貴重な時間なので自分の気持ちを殺して親に心配させないように毎日笑っていた。私はこの時、強くなっていつも笑顔でいることに決めた。
私は日本で、写真関係の仕事をしていきたいと思っています。そのためにも絶対に大学に行きたいです。在留資格を得るためにも大学入学が必要なようです。
私のまわりの写真部員の状況はとても厳しい状況です。ひとりで支える野村先生。でもみんなの目が輝いています。空港では泣いてばかりいたけれど、これからは写真で社会で役に立って、日本と中国の架け橋になりたいです。つらくても笑って生きていきたい。強くなって、この日本でいつか、父と母と妹をまた日本によび、一緒に暮らしたいです。