きっかけは新聞への投稿
Q: 最初に漫画を描くようになったきっかけは何でしたか。それをお仕事にしようと思ったきっかけは何ですか。
京都教育大学の三年生、21歳のころ、美術科で、ずっと油絵を描いていました。そのころ、将来は、画家になろうと思っていました。ちょうど大学の三年のときに大阪の産経新聞で漫画の投稿欄の募集が始まったんです。これが当時学生だった自分にとってはとてもいいアルバイトだと思いました。その当時のサラリーマンの初任給が3万ぐらいの時代に、その投稿欄に一回入選すると、3千円もらえたんです。毎週一回、新聞社が出すテーマに合わせて1コマ漫画を投稿欄に描くという仕事でした。それが始まりで、新聞の投稿欄に毎週自分の名前が載るようになったので、きっとそこで新聞社が目をかけてくれたんですね。1年たったころに「連載しませんか」と声をかけてくれたんです。それで、大学の4年生のときに、新聞の連載を持つようになりました。それが1コマ漫画家としてのデビューでした。つまり、アルバイトのつもりで大学の三年の時から漫画の投稿を始めて、1年後には漫画家としてデビューすることになり、それからずっと描きつづけているというわけです。
法廷画家という仕事
Q: 漫画家のほかに法廷画家という仕事もしていたとのことですが、それは現在でも続けていますか。
法廷画家の仕事は、漫画の連載がきっかけで新聞社の人とのつながりがとても深くなって、いろいろな仕事を引き受けるようになり、その流れの中で頼まれた仕事でした。いろいろな仕事の中にはたとえば、遊戯施設や空港などのような新しい施設ができるときに、そのイメージのイラストを描くというものもありました。それはまだ出来上がっていない施設の完成イラストを想像して描くという仕事などで、たとえばまだ設計図の段階のUSJのイメージイラストを描いたこともあります。関西空港ができるときにも、まだ工事中でコンクリート打ちっぱなし状態のところへヘルメットをかぶって入って行って、ここは入国カウンター、ここは売店などと、いろんな説明を聞きながら自分の中で想像して、一階から四階までの解説付き断面イラストを描いたりした事もあります。そんなふうに、まだ完成していないものを描くという仕事もやっていたので、この人に頼んだらなんでも描いてくれるし何を頼んでも大丈夫だと思われて、便利に声をかけられていたんでしょうね。法廷画の依頼のきっかけは和歌山でのヒ素入りカレー事件でした。町内のお祭りのときに出したカレーライスの中にヒ素が入れられて、町内の人がたくさん人が死んだという事件が起きました。その時の裁判の絵を描く者が必要だということで、「和歌山まで行ってくれ」と声をかけられたときが初めて、法廷画を描くという仕事をしたわけです。その頃には、関西には法廷画を専門にしている描き手が少なかったからでしょう。法廷画を描くときには、法廷の中に入れる時間が短いんです。僕の場合は、最初の和歌山の事件のときには3分ほどしか与えられませんでした。3分という短い時間で法廷の中の被告と、裁判官と警察官がいる情景を描くって、普通は無理でしょう。でも、漫画家は描けるんですよ。僕の場合も、法廷に入ったときに全体をさっと見て、その被告の顔と服装だけ覚えていたら法廷から出た後でも想像で描けたんです。その時に、法廷画の仕事をするには普通の絵描きよりも漫画家のほうが適してるなと思いました。そんなわけで、最初は法廷画家になろうと思っていたのではなく、たまたま頼まれた仕事なんですよ。その後も、関西で起こった大きな事件の裁判のときによく呼ばれて描きました。今はもう法廷画家の仕事はしていません。ちょうど大学の教員になった16年前に、大きな事件の法廷に行って描くという仕事はもう時間的に無理となり、法廷画の仕事はやめました。その後は代わりに大学の学生に法廷画の仕事を紹介して、描き方やコツを少しアドバイスして、実際に京都の裁判所の仕事に行かせたこともあります。ある韓国から来ていた留学生にも、法廷画の描き方を教えたのですが、その経験が生きてその学生は国へ帰ってから韓国の裁判で声がかかって、向こうで時々法廷画の仕事をしているそうです。
Q: 法廷画家というのはどのようなお仕事ですか?
基本的にアメリカでも日本でも裁判所の中ではカメラは使えないんです。でも、メモをするとか絵を描くということは可能なので、必然的に絵を描いてそれを新聞などで報道するということに変わってきたんだと思うんです。そういう意味でずっとなくならない仕事ではありますが、新聞に載るような大きな事件というのは月に1回あるかないかなので、その仕事だけで食べていけるものではないですね。
大きな事件の被告の裁判となったら、それはみんなが見たいものなので、大勢の人が傍聴に押し掛けます。でも報道関係に与えられている席は限られているので、絵描きはなかなか法廷の中に入れないんです。そのように注目されている裁判の場合は抽選に並ぶこともあります。裁判所によって違いますが、割りばしのようなくじ引きで決める場合もあるし、このごろはパソコンを使って抽選をする場合もあり、そこであたったらやっと入れるわけです。新聞社がその抽選のために10人ほどのアルバイトを雇って、その当たり券を手に入れるというようなこともあるんです。競争率が高い裁判の場合は、外れた場合は法廷画を描く者は記者の席に初めは座るのですが、記者は記事を書かないといけないので、記者と、例えば、1分や2分程度で交代します。それで頭の中に描いたイメージを覚えておいて、ほかの場所、例えば裁判所内の新聞社のブースや支社に帰って仕上げるというような場合がよくあります。
Q:普通の漫画を描くのと法廷画を描くのとはどう違いますか。
法廷イラストというのは今起こっていることを写し取るというもので、カメラマンのような仕事です。でも漫画は全然違います。起こっている物事に対して自分の意見を入れて、風刺的にも皮肉っぽくも自分の主張を取り入れて表現するということですから、まったく違うんです。だから、僕は「絵」と「漫画」の違いを説明するとき、よくこういう話をします。絵を描くことは誰でもできます。サルでも象でも、例えば、動物園にいる象に筆を持たせてすすすーっと何か描いたら、何を描いたのかはよくわからなくても、象が筆を持って何かを描いたということになる。これは、偽物ではない、まさに象が描いた絵なんです。しかし、漫画は人間しか描けません。なぜなら、漫画というのは、その気持ちを表現するための、アイディアを込められているものだからです。気持ちをどう一枚の絵に表現するかということも含めた表現能力がないといけないわけですから、漫画家の資質にはそれなりのアイディア力や、絵画力など、必要なものがたくさんあると思います。
Q: 附属池田小事件や和歌山毒物カレー事件などのような、社会で大きく注目された事件の法廷画を描いたとのことですが、それはどういう経験でしたか。
世の中の人で裁判所に行くことが一生に一度もない人は多いと思うんです。訴えられて裁判所に行く人もいますが、人の裁判を見ることなんて、まずないものです。裁判の被告の顔を見てみたいという人も中にはいると思いますが、そういう意味ではこの仕事はとても恵まれました。僕は法廷画を描く仕事をしていたので、大きな事件の何人もの被告の顔を知っています。例えば、新聞社の偉い人でも裁判所で裁判を見たことない人は多いわけです。なぜなら、そういう人は、記者に記事を書かせて、写真を撮らせて、あるいは、僕らのような法廷画家にイラストを描かせて、それを見るだけなので、裁判所の中で裁判を見たことが無い人が多いですね。そういう意味では僕はすごく貴重な体験をさせてもらったと思っています。そこで、その時にはできるだけ、その被告の顔を写し取ろうと思うのですが、自分の中にこう興味があり、怖い人だな、この人は何人も人を殺したような人なのかとか思うと、ドキドキしますね。 そういう怖さやドキドキする感情は、 最初の頃はいつもありましたが次第に落ち着いて描けるようになりました。
でもこれにも慣れてきて、他社の画家たちより早く描いて出られるようになってきたころ、やはり附属池田小学校の事件ときは、被告がとても凶暴な人間なので、毎回みんなが緊張していたのを覚えています。普通、被告は被告席でシュンとなっているものですが、池田小事件の場合は、いつも、裁判官に向かって、敵意を持って座っているような感じでした。彼はあるとき着ていたトレーナーには、背中部分に、偶然かもしれないけれど「White Devil」というロゴが入っていたのを見て、ちょっと驚ました。多分彼は自分を演出してるんだなと思ったのを覚えています。
ほかにもこんなことがありました。大きな事件の場合は、最初から最後まで裁判に行っていたので、被告の顔はもう目をつぶってでも描けるぐらいになっているわけですが、附属池田小事件の被告の顔を、裁判の前の晩に描いたことがありました。もう、判決の時にだいたい言われることがわかっていたので、判決のときは、裁判長のほう向かってにらみつけてる顔にしてやろう、と思いました。そして、服装だけを後から描いたらいいと思って、用意して行ったら、たまたまその日、被告はなんと、眼鏡をかけて出てきたんです。「えーっ!いつもかけていないのに、どうして眼鏡かけてるの?」と驚いたんですが、彼は、裁判長に向かって言いたかった文句を書いたメモを持ってきて、それを読むために眼鏡をかけていたんですね。今まで俺はだまっていたけど最後に一言言わせてくれ!と裁判長に文句を言ったたんです。裁判長はもちろん制止するわけだけど、聞く気配がなかったので、彼はあっという間に裁判所の法廷から連れ出されてしまったんです。それで、そこにいた法廷画家たちは、被告がいなくなってしまったから、もう描けなくなってしまいました。でも、僕は被告の顔もその時の情景を覚えているから、彼がつかみ出されてるところを描いて、それが新聞に載りました。なかなかそういう体験はできないものなので、法廷画家の仕事ではあれは貴重な体験だったと思っています。
漫画家になって一番うれしかったこと
Q: 漫画家のお仕事をしていて、今までで1番うれしかったことは、どんなことですか。
いろいろありますが、いくつかの、大きな賞を取った時はやっぱりうれしかったですね。一コママンガで身を立てて生活していくということはとても難しいし、今の日本では一コママンガ家として、それだけで生活している人ってほとんどいないと思うので、認められるということがとても嬉しかったです。多くの一コママンガ家は同時にイラストレーションを描いたり、法廷イラストも含めて漫画だけじゃない、絵を描くという仕事で生活してきているわけですから、自分が一番やりたい一コマ漫画で認めてもらえたということがうれしいことでした。コンクールの中での賞をもらえるというのは、認められたということですからね。一番最初にもらった大きな賞が、読売新聞が主催した読売国際マンガ大賞でした。毎回、世界100か国ぐらいの応募者があって、1万点ぐらいの作品が集まるそのコンクールでトップになるというのが夢だったのですが、それを30代の時にもらった時がやはり一番嬉しかったです。その時に「漫画で身を立てるなんて…」と言っていた母も初めて「あんたには才能があったんやね」と言ってくれて、そのときは嬉しかったですね。
大学の教員になってからはコンクールに出すことはやめたんですが、 最近では4年前に漫画家協会賞の大賞をもらいました。この賞は、漫画家が選ぶ漫画賞で、読者や編集者が選ぶのではなくて漫画家仲間が選んでくれるというものなので、自分にとっては国内では最後の目標にしていたものでした。それをもらったのもやっぱりうれしかったです。そして賞とは違うのですが、 最近でうれしかったのは、この間の平和漫画展を企画したときに、かつては百貨店の外商をしていて僕と全く違う価値観を持っていた弟が、NHKの放送を見てメールをくれて、「 兄弟として誇りに思います」と書いてくれていた事です。その時は、まったく違う世界で生きていた弟が、彼なりに自分のことをそんなふうに思っているのだとわかって、本当にうれしい気持ちになりました。
漫画に平和への願いを
Q: 最近、反戦をテーマにした1コマ漫画を描き、平和をテーマにした漫画展を開催していますが、どうしてこのような戦争に関する作品を描くようになったんですか。
実は僕は、もともとは、戦争反対や差別反対などということを正面切って語るような漫画を描くタイプではないんです。 僕の漫画は、普段の 一般の人間の生活の中にあるちょっとしたユーモアを表現したものが多いんです。 普通の人が気づかないような部分を切り取って、これ面白いでしょっていうユーモアの表現、それが僕の作品のメインなので、政治的な問題を正面切ってテーマにしたことは少なかったんです。 なぜかというと人は、政治的なことなど、ものの評価が分かれるものについて意見を述べると、政治的にどんな立場の人なのか、どんな政治思想を持っている人なのかとかいう色分けをされてしまうことが多いんです。僕は共産主義者でもないし、右翼でもないし、普通の生活をしている一般市民なんだけれど、 私はこれについてこういうふうに感じますよって言った途端に、君は共産主義者だとか、右翼だとかって決めつけられたりすることが世の中ではよくあるんですね。それがとても嫌だったので、そのように正面切って政治的社会的な作品を描かないで、きたんです。しかしはっきりとは描かないけれども、作品の深いところを読み込める人なら、普通の一般人の1シーンを描いているんだけれども、何についてどう風刺しているのかが、分かる人にはちゃんと伝わるような表現をしてきたんです。 でも、今回のロシアのウクライナ侵攻が起きてからはちょっと変わりました。誰が見ても、政治家でもない軍人でもないウクライナの一般の人々が暴力的に苦しめられ、つらい思いをしているのです。ロシアに対してどういう思いを持っていたかに全く関係がなく、突然暴力的な手段で攻められ、国が破壊されるという状況に置かれているんです。 さすがにこんなことが起きてしまっては、「どっちもどっちやね」などと言って傍観しているわけにはおれません。 明らかに問題だということを言わなければならないと思ったので、描きだしたんです。最初は、自分のfacebookで、毎日、プーチンやロシアに対する怒りの思いを漫画に描いてたんです。そして、よく見渡してみると、 ほかの国の多くの漫画家も同じように声を上げているということを知ったので、それなら、そうした世界中の戦争への反対を表している漫画家たちに呼びかけて、彼らの漫画をまとめて展覧会にしよう、ということで開催することにしました。
Q: 1コマ漫画を通じて戦争を表現される理由はなんでしょうか?
先ほど言った通り、今回のロシアとウクライナの戦争を見て、これは声を上げなければ、という気持ちで描いているのですが、そうした気持ちを、ストーリー漫画で描くには時間がかかるけれど、一枚だとすぐに表現できるから、という理由もあります。僕にとっては一枚の漫画に描くのが一番表現しやすい手段だからです。
Q:「平和への130枚」などの漫画展では、多くの漫画に核兵器のテーマが描かれていますが、核兵器の国際安全保障における役割について、どう思いますか。
難しい質問ですね(笑)。核は持ち込まないし使わないというのが日本の立場でしょうね。でも現実には核はどこかにあるのでしょうし、原発も一時全て稼働停止になりましたが今は一部が再稼働していますね。今までは、核兵器を持っていることがあの平和を保つための力の均衡を保つ安全弁のように見られていたと思うんです。持っているけど使わない、持っていることが戦争を起こさないための道具だと思っていた部分があったと思うんですけど、そうではなくなったのかなと思います。今度の侵攻のように、核兵器を「使ってやるぞ!」という脅しにしているプーチンを見ていると、もう今までの考え方と違うんだな、本当に使うつもりなんだな、と。人類は過去に、唯一、原爆を落とされた日本の状況を見て、そのような恐ろしい兵器を二度と使ってはいけないと、それを使うことでどんな悲劇が起こるかをみな勉強しいるはずなんです。 それなのに、今回のような侵攻がおきてしまうわけで、人間は学習できない 生き物なんだということを、この頃思っているんです。それはやっぱり恐怖です。 核を持っている国は、指導者のその資質によってどう変わるか分からない危険性を持っていると思います。 けれど、でもそれを生み出してしまったのもわれわれ人間なんですよね。
これからの漫画、そして地球の未来への想い
Q: 漫画王国とっとりを作られた目的はなんでしょうか?
まんが王国とっとりというのは、僕が作ったわけではなく、水木しげるさん、青山剛昌さん、そして谷口ジローさんという有名な三人の漫画家の出身地である鳥取県に、漫画で町おこしをという目的もあって、鳥取県が11年前にスタートさせた漫画のコンクールです。その頃に京都精華大学の教授であった僕が 審査員として関わったことがスタートで、そこから、僕は鳥取県との繋がりが増えていって、今回、鳥取県で平和漫画展を開催することにもなりました。鳥取県は漫画王国とっとりのコンクールを主催することで、新しい漫画の描き手が出てきてほしいという思いで続けているんです。漫画王国とっとりがほかの漫画コンクールと違う点は、例えばジャンプやチャンピオンなどで描きたいといった漫画家を育てるのではなく、ちょっと違った、こだわりのある個性的な漫画の描き手を育てているというような部分があります。だからまんが王国とっとりで受賞して、すぐにメジャーな雑誌でデビューできるということにはならないんですが、独自の漫画文化、漫画の描き手を育てているという考え方を持っていると思います。そこから何人もの有名漫画家が出て活躍しているということにはまだつながってきていない地道な活動ですが、これは鳥取県の平井知事がかなり力を入れてくれている活動なので、きっとこれから新しい漫画の描き手や個性的な作品が出てくると思います。
Q: これから、漫画を通してどのようなことを表現し、伝えていきたいですか。
自分自身はこれまでと変わらず日々の生活の中でふと思いつくユーモアの情景や時にはナンセンスな笑いを中心に描いていきたいと思います。時には世の中の問題や矛盾に対する怒りや疑問を世の中に訴える表現も描きたいし、若い描き手を応援する企画も考えて行きたいですね。自分の心の中に『これを訴えたい』という思いが無くなったら描くのをやめる時だと思いますが、今のところどんどんアイデアが出てくるので当分は自由気ままに描きつづけると思います。
(インタビュー:2022年7月)