1960年生まれ。日本の著名な書道家、書道教育者。幼い頃から書道、篆刻を深く学ぶ。国内外で大きな書展やワークショップを開催し、書道文化の普及に努めている。古典と現代アート表現手法を融合させる独自のスタイルは、日本国内だけでなく、世界で広く認知され称賛を受けている。代表的な書展に、2016年「寳」(アルゼンチン国立美術サロンPALAIS DE GLACE) 2018年「日本の風」(メキシコ市立バスコンセロス図書館)2020年「日本の風」(キューバ国立アリシア・アロンソ大劇場)2023年「無常」(ブエノス・アイレス市文化の家)などがある。
Q:何がきっかけで書道の道を選びましたか。
幼い頃から書くことが好きだった。字を覚えはじめたころ、木の棒を拾ってきて地面に字を書いて遊んでいたの。僕の育った福井は、雪がいっぱい積もって冬になると一面銀世界。真っ白な雪の上に、棒やオシッコで字を書くことが楽しみだった。とにかく書くことが大好きだった。それに尽きるかな。
Q:書道の道をえらんだおかげで、どんなことが印象に残っていますか。
「生きる」ことを学んだ。やっぱり字を書くということって、一人じゃできないことなんだよね。誰かに習ったり、人と関わらなきゃいけない。先生にもつかなきゃいけない。友達にも恵まれなきゃいけない。人と人との関係で社会が成り立っているわけだから、それを書道を通して勉強させてもらった。有難いことだ。
Q:それによって、変わってきたことがありましたか。
小さい頃、夢中になったことが2つあってね。1つは字を書くことで、もう1つは地図を見ることだった。地図を眺めながら、アメリカという国は大きいな、ブラジルにはどんな食べ物があるのかな?タイという国ではワニが街の中を歩いているのかな?そんなふうに、いろんなことを想像していた。それで、大学は地理学を専攻した。同時に、書道も続けたいと、大学のあった愛知県豊橋市で新しい書道の先生の門を叩いた。その出会いは、僕の人生において大きな転機になった。「出会い」が、僕を書の世界へ導いてくれたんだ。そして親しんだ地図帳にある国、世界への扉が開いた。
Q:初めて海外に行ったときの第一印象は?
学生の頃、家からの仕送りが3万円、書道のお月謝が5千円だった。3万円のうち5千円って大きいよね。だから、もったいない、もったいないと思って、書のお稽古には誰よりも早く行って、誰よりも遅くまで一生懸命練習したものだった。ハングリー精神っていうのかな。とにかく必死だった。
お稽古には、老若男女、いろんな職業の人が来ていた。教会で長老(牧師さんの下でいろいろお世話をする人たち)をしていた歯医者さんがいてね。奉仕活動として、休みになると田舎のほうに行って、貧しい人たちの治療を無償で施した人だった。そんな立派な人と、僕は一緒に書を習っていたんだ。ある時、台湾の故宮博物院へ、ホンモノを皆で観に行こうという話になったの。僕はお金がないから行けないなあと思っていたら、その歯医者さん「浜野さん、私が費用を出すからあなたも行きなさい。」って。それで初めての海外旅行が実現した。うれしかった。美味しかった。ホンモノに感動した。だからあの台湾旅行のことは鮮明に覚えている。台北の街には見たことのない漢字が、活字じゃない、古典に根差した美しい筆で書かれた文字が溢れていたのを。
Q:海外と日本の一番はっきりした違いは何ですか。
日本には「ホンネ」と「タテマエ」という言葉があるよね。「はい」か「いいえ」をはっきり言わない、というより、言ってはいけないという教育を受けてる。これは、裏を返すと、相手を傷つけないようにということにもつながる。僕も若い時は、はっきりしないのはダメだ、と思っていた。海外では「イエス」か「ノー」か、白か黒か、はっきりさせるよね。グレーなんてない。「ホンネ」と「タテマエ」というものが好きじゃなかった。
でも、白黒はっきりと表現できないものがあるからこそ芸術があるんだよね。日本の文化にある「奥ゆかしさ」っていうのがこの歳になって、よくわかるようになった。これは世界中どこにもない、日本だけの美しいものだ。
Q:海外で書道を教える中でどんなことを伝えたいですか。
今の世の中、パソコンでキーボードで文字を打つ作業ばかり。手で心を込めて書くということがめっきり少なくなった。手書きの文字にはその人の魂が宿る、打つ文字とは全く違うものなんだ。「書く」ということは、そこに今という時間があって、その時間を生きること。書いた人間が、未来永劫その文字の中に生き続けるんだ。20年経てば、人も世の中も変わるけれど、手で書いた文字には、そのときの自分が生き続ける。それが書なの。書くということなの。僕はそれを伝えたい。
あれは東京の地下鉄に乗っていた時のこと。皆スマホに夢中で、お年寄りが立っていても誰ひとりとして気が付かず、席を譲ってあげない。スマホに夢中で、周りの人に神経を配らなくなってる。なんだか寂しい空間だった。一番大切なものをどこかに忘れてきちゃったような。
そのみんながどこかに置いてきてしまった大切なものを、海外で伝えて歩いてるのが今の僕の仕事なのかもしれない。書といったら、筆で難しい文字を書くアカデミッックで専門的なイメージがあるんだけど、それだけじゃないんだ。
要はとてもシンプルなこと、「心を込めて書く」ということを今一度見直そうということ。子供の頃、そう文字を一つ一つ覚えたあの頃に戻って自分の名前を書いてみたらどうかな。それは自分を、自分の人生を見直すことになる。言葉や習慣が違っても、世界中の人がそれをすると、世の中が少し変わっていくような気がするんだよね。
Q:海外での活動先をどのように決めましたか。
海外で台湾の次に訪れたのは、ギリシアだった。でも、アテネにあるパルテノン宮殿などは何か古すぎて僕にはピンとこなかった。ローマのコロッセオとか、フォロロマーノも同じだった。その点、日本の三十三間堂とか東大寺とかは、まだ呼吸をしているようであたたかい。日本の良さを見つめ直したのもその時だった。
それからスペインのマドリードに行ったんだ。うどんが食べたくて日本食レストランに入った。そしたら立派な壁があってね、ここなら僕の大きな作品を飾れるんじゃないかと、オーナーに談判した。そしたら飾らせてもらえることになって、後日 日本からたて8mの布の作品を持っていった。高いと思っていた天井までの高さは4mぐらいで、壁にかからないわけ。それで、どうせ現地の人は書いてある字が読めないだろうから、横にして飾っちゃえ、となったの。(笑)
そこは当時セレブが集まるレストランで、その横にして飾った作品が大評判になった。結局作品を全部買ってくれたの。でも日本スペインを何往復もしたから、大赤字(笑)。
これが海外での活動の始まりになった。
1996年冬、スキューバ・ダイビングのライセンスを取るためにハワイへに行ったんだ。偶然、学校の先生をしていた日系3世の女性が僕に道を尋ねてきた。これが南米への大きなきっかけになった。
日系三世の女性の名前は、サラ澤田さん。旦那さんがミリラニ高校で教鞭をとってみえた関係で、書の特別授業をやることになった。初めてのハワイでの授業。参加したのは、30人ぐらいの日系人の生徒たち。顔を見ると日本人だけど、なんか変。英語がものすごく上手なのに日本語を話せない。日本人じゃない。でもアメリカ人でもない。どこか日本の匂いがする不思議な人たち。これが僕の日系の人たちの最初の印象だった。
移民の古いハワイの日系の人たちは、ほとんど日本語を話さない。高校を卒業すると大学進学のため、アメリカ本土に行って帰って来ない。ましてや日本に全然興味を示さない。その現状を日系人のおじいちゃんおばあちゃんはものすごく悲しがっていた。
そんな中、2010年にハワイ官約日本人移住125周年を迎えた。これに合わせて在ハワイ日本領事館とハワイ日本文化センター(JAPANESE CULTURE CENTER OF HAWAII)から僕のところに展覧会のオファーが舞い込んできた。咄嗟に、僕はハワイのおじいちゃん、おばあちゃんの顔が浮かんだんだ。日本からハワイへ移った人たちの名前を書こうとひらめいた。ハワイ移民史から1000の名字をピックアップして、たて3mよこ2mの布に書いた。気がつくと全部で24枚になっちゃった。たて3mよこ48mの大作だ。会場のハワイ文化センターのギャラリーはさほど広くなかったから、作品と作品を背中合わせにして通路を作った。移民した人たちに囲まれる特別な「書のある空間」が出来上がった。「私の名前はどこにあるの?」と連日たくさんの日系の方たちが、訊ねてきたのが懐かしい。
Q:そこから、南米の日系社会でも教えることにつながったのですか。
JICA横浜からこのハワイの展覧会の再現をしないか、とオファーが入ったのが2014年。あの時、僕には「ハワイに渡り、二度と日本の地を踏むことができなかった人々を里帰りさせてあげたい。」という想いがあった。小規模だけれど無事彼らを日本へ連れて帰ることができた。打ち合わせの時、ブラジルから帰ってきたばかりのスタッフから、「南アメリカにはもっとたくさんの日系人の方が住んでいる」と聞いた。それで展覧会が終わってすぐに南米に飛んだの。なんの計画もなく。でも不思議なことにたくさんの方が動いてくれて、これが大きな転機になった。
初めての南米。最初の訪問地はブラジル、サンパウロ郊外にある「コロニアピニャール(福井村)」だった。元村長の山下治さん宅にお世話になり、その村の日本語学校で南米最初のワークショップが実現した。それからブラジル、マリンガにあるセスマール大学でワークショッを開いた。マリンガ在住の日系3世、植田真一さんが企画してくださった。通訳の植田さんが、講演での僕の話に興奮しちゃってね。「お前は日本人じゃない。」と大喜びだった。褒められたのかな?もちろん大学生からも、ものすごく反響があった。それからパラグアイ、アルゼンチン、ペルーを回り、ひと月半に渡る初めての南米行脚は、大成功に終わった。
僕は、ひらめいたらすぐ動いちゃう。その結果がこれだ。
だからあんまり考えちゃダメだね。 思ったらまずは動くのさ。
最初の南米行脚は500本の筆を手に、ワークショップや講演会を開きながら配って歩いた。ペルーで全てそれを配り終えた時、熱いものが込み上げて来た。うれしかったよ。
翌年、国際交流基金の助成事業になり、その活動はさらに大きくなった。そして今ではラテンアメリカにたくさんの友人ができた。リマには僕の教室があって、年に2、3回教えに行く。でも行くたびに赤字になっちゃう。皆一生懸命書いてる顔を見ると、これで止めようと思っていてもやっぱりもう1回だけ行こうかと。気がついたら10年経っちゃった。ものすごく皆上手くなった。そして僕も、いろんな国で大きな書展を開いていた。その時リマのお弟子さんが、メキシコやアルゼンチンまで自腹で手伝いに来てくれた。うれしかった。
2016年、アルゼンチン国立美術サロンPALAIS DE GLACE で開いた「寶(たから)」は、今までやった中で一番大きな展覧会だ。ラテンアメリカに住む日系人の名前で、体育館くらいある会場の壁や床を覆った。偶然いろいろな機関やたくさんの人が動いてくれて実現したものなんだ。これまでで一番大きな展覧会になった。ホントウに「感謝」という言葉しか見つからない。ありがたかった。当時のディレクターから、今でもあの僕の書展が話題になると聞いた。彼(画家)との親交は今も続いている。
僕の思いつきで始まったこうした活動は、次第にいろいろな人とつながっていった。いつの間にか、各国の日本大使館とも連携して動くようになり、ブラジルはサンパウロ、マリンガー、ロンドリーナ、クリチバ、それからマナウスにも行った。2023年にはアルゼンチン、ブエノス・アイレスで大きな書展『無常〜LA IMPERMANENCIA]を開いた。2024年前半は、ベネズエラ、ペルー、メキシコから声がかかった。そして2024年10月、コロンビアとチリ政府から招聘を受け南米に向かう。これで南アメリカの国々をほぼ回ることになる。
最近思う。僕は何か目に見えないものに操られてるような、誰かが僕を動かしてるような気がしてならないんだ。それはもしかしたら日系の人たちの「魂」のようなものかもしれない。「使われて踊るなり!」の境地だ。
今回、この企画を担当したインタビュアーの山下ゆりさん。彼女は、10年前ブラジルの最初の訪問地、福井村でのワークショップにいた。当時小学生だった彼女が今は立派な大学生。頼もしい。日本とブラジルに大きな橋が、またひとつかかったのを確信した。
Q:今まではどんなことが一番大変でしたか。
一にも二にもお金の工面。渡航費を捻出するのが大変だった。でも不思議なもので、絶対やりたい!と思い続けていると必ず誰かが助けてくれた。よくもまあ10年も続いたものだ、と我ながら感心する。「やりたいと思ったらとことんそれに立ち向かう」っていうことが大切だと思うね。
Q:どんな時が一番嬉しかったですか。
いろんな人との付き合いが深まるときが一番嬉しいかな。
30年くらい前、中国の杭州に篆刻(てんこく)の勉強に行った。篆刻というのは、印の芸術で、その歴史は中国で2000年以上前に遡る。アートとして確立されたのはまだ500年ちょっとなんだ。滞在先のホテルロビーで休んでいたら、おじいさんがピアノのを弾いていた。僕は、毎日毎日その大好きなピアノの音色に聴き入っていた。そうしたらおじいさんも僕のことが気になったんだろうね。「何してるの?」って話しかけてきた。そして「よかったら君弾くかい?」って。それから毎日ピアノを弾くことが僕の日課になった。やがて勉強も終わって帰国するときに、おじいさんは自分の大切な楽譜を僕にくれたの。そこにおじいちゃんが奏でていた曲があって、僕は今でも大切に弾いている。弾くたびにあの頃が蘇る。
その翌年、中国のそのホテルを訪ねたんだ。でもそこに彼の姿はなかった。高齢のためリタイアしたとのこと。翌日、おじいさんの家を訪ねた。部屋に入ると、ボール紙にマジックで描いた鍵盤が目に入った。相当練習したんだね。ボール紙の鍵盤が指の跡でボコボコにへっこんでいたの。
要はおじいちゃんはピアノを持っていなかった。だから紙の鍵盤で毎日毎日練習したんだ。ハッとした。何かがないからできないというのは理由にならないと。どんなことをしてでも勉強っていうのはできるもんなの。どんな状況であれ。僕は大切なことを教わった。
それから、書道の紙があるでしょ。僕の使っている紙は、日本から台湾へ材料や技術を移して、台湾で作られていたの。ところが台湾も人件費が高騰して作れなくなったから、今度はタイに移した。ある時、バンコク郊外にある紙工場を訪ねた。現地の人たちがエアコンもない暑いところで汗だくになって、一枚一枚 紙を一生懸命手で漉いていた。彼らは漢字の文化圏じゃあないから、漉いた紙がどんなふうに使われて、どんな感動を与えるのか全く知らないわけ。それで、社長にみんなに書くところを見せたいと提案して、即書のデモンストレーションとなった。200人以上の従業員の前で、書を披露した。そして一人一人初めての書に挑戦した。自分達の漉いた紙の使い道がわかれば、仕事にプライドも持てる。そうなると紙の質も良くなりそれがアーティストにゆくゆくはフィードバックされていく。紙を漉く人がいるから書道も成り立つんだ。たくさんのエネルギーを彼らから貰ったよ。
人は、決して1人で生きているんじゃない。必ずどこかでいろいろな人と絡み合って、たくさんのものをもらって成長し、やがては自分が逆にそれを世の中に返していくわけだからね。そんな人との付き合いが深まることが何より嬉しい。
Q:出会った人の中で一番印象的に残った人は誰ですか。
僕の師匠、福瀬餓鬼(ふくせがき)先生。僕が18歳、大学のあった愛知県豊橋市での出会いだった。下宿先近くの銭湯で「書道教室生徒募集」の張り紙が目に入った。早速尋ねると、汚ない半ズボン、ヨレヨレのシャツの変わったおじさんが出てきてね。使用人かと思ったら、その人が先生だった。(笑)でもまさかそれが、僕の人生を左右する出会いになるとは。
先生は、どうして大学に入ったのか、将来何になりたいのか、大学で何を勉強するのかとか、いろんなことを聞いてきた。その中で僕が一つ強烈に覚えてるのが、僕が学校の先生になりたいと言ったら、「学校の先生?そんなつまらんもんやめとけ。」って言うわけ。何がつまらないのかと言うと、これは一般的に日本の場合だけど、学校の先生というのは、大学を出てすぐに学校という狭い世界に入っちゃうので、一般の社会を、常識を知らない人が多すぎるからだと。そうならないようにしないといけないよ、というアドバイスだった。
僕はその先生について書を学んだ。生き方を学んだ。プロの書家という道を選んだのもこの時だ。卒業後、生活費を稼ぐため、幼稚園バスの運転手を紹介された。ハンドルを持つと子どもたちが騒がしくて、閉口していた。ある時、NHKで「みんなの歌」というのをやっていて、その歌を片っ端から覚えた。そして、運転しながら歌ったんだ。そうしたら騒いでいた子たちが、静かに僕の歌を聞くんだよね。僕は一躍人気者になった。子供たちは、僕の運転する隣の席に座りたくて、取り合いになった。窮すれば、いろんなアイデアが浮かんでくるものだ。だから、とことん困ったらいい。
「出会い」はどこにでもあるんだ。ぼーっとしてると、それを逃しちゃう。必ず自分に大切なものをくれる人が前を通るのさ。その時にその人を捕まえられるかどうかっていうのは人生の大きな分岐になるよね。だから皆さんもその人を逃さないように、毎日を懸命に生きてくださいね。
Q:好きな字は何ですか。
「一」 という字。 「一」って棒一本だけどものすごく深い。画数の多い文字だと、一本の線ががもしちょっと曲がっても、他でカバーしてもらえる。でも「一」という字の場合は、一本だけで、それが全てだ。 だから「一」という字は、始まり、つまり生まれて、生きて、死ぬ、終わりが来るまでの「一」。 自分の力で、自分だけの人生を生きるっていう感じがするから、「一」という字が好きだ。だから書くのも一番難しい。
Q:先生にとって書道とは何ですか。
生きることだね。スペイン語で言うと、’Vivir’。人生そのものっていうこと。みんなにも、これから何でもできるから、何か目的見つけて、とことんやってほしい。可能性は無限大だ。
Q:どんな夢がありますか。
いろんな人がいろんな想いを持って生きている。そうした人たちが、みんなで手をつなぐことができれば、戦争っていうのは起こらないんじゃないかな。
今どこもそう。自国第一主義になってしまうのは当然なんだけど、それにしても強すぎる。自分のとこだけよければもう人はどうなってもいいみたいな考えが動き始めてるでしょう。それが戦争という悲劇につながっていかないとも限らない。そうならないといいな、と願うばかりだ。
書くことを通じて、もちろんプロのアーティストとしてものを作るということが第一なんだけど、人と人とが手をつなぐことの大切さを伝えていくというのも、これからの僕の仕事なのかなという気がする。そして世界中の書の愛好者が集う展覧会ができたら最高だ。
(インタビュー:2024年7月)