異文化交流で世界がカラフルに

武蔵野美術大学

異文化交流で世界がカラフルに

PEOPLEこの人に取材しました!

藤田智彦さん

国際交流基金・日本語専門家

アナウンサーをやめて、日本語教師に。韓国、日本、そして台湾で日本語を教える。日本語教師の経験を経た藤田さんの異文化理解への見方についてお話を伺った。

アナウンサーから日本語教師へ

日本語教師になる直接のきっかけを言うと、秋田でアナウンサーと記者を兼務してニュースの取材をしていた時です。当時秋田には日本語が話せない子どもが意外と多くいたんです。東京だとおそらく民族学校があるけど、秋田にはないから、日本語がわからないのに地元の学校に行くわけです。そうすると、その子どもは勉強についていけなくて、だから、国語とか社会とか、日本語がわからないと本当にちんぷんかんぷんになってしまう教科は、ボランティア団体の人と一緒に別の部屋で日本語を勉強するということをしていたんです。

そういう活動を取材した時に、いい仕事だなと思ったんです。困っている状況じゃないですか。言語ができないっていうだけで学校の勉強についていけなくて、友達とのコミュニケーションももしかしたらうまくいかないケースもあるし、辛い状況になることもある。そういう時に日本語を教えることで外国にルーツを持つ子どもの役に立つというか、人生に影響を与えるというか、何かこう日本で生活していく力を与えることができるように見えたんです。わあ、かっこいいなと思いました。それでその時にテレビの仕事との比較をした時に、テレビの仕事は、不特定の多くの人に情報を伝えるという意味では影響力は確かにあるんですけど、社会の、誰かの役に立っているという実感が持ちにくいと感じたんです。どちらかというと不幸な現場の方が多いですしね。日本語教師は自分が直接何かをすることによって誰かの人生に良い影響を与える実感があるじゃないですか。友達できたんですとか学校の勉強わかるようになりましたとか。そういうのいいなって思ったんです。

テレビ局で働いていた藤田さん

教育観の変化

日本語の先生になっていくつかの場所を経験してから、その仕事に対するイメージが変わっているんです。初めは正確な文法と正確な発音を教えなきゃって、それがいい先生だと思ってたんです。日本語教師としてのスタートは韓国、ソウルの日本に留学したい高校生を対象とした学校でした。本当に正確じゃないと受験は受からないのでそれで良かったんですけど、その後で働いたのが関西大学の留学生別科だったんです。そこはいろんな国の人が混ざってきている。本当にさまざまな文化が混ざっている感じでした。いろんな文化を持っている人が混ざると色々ぶつかることがあったけれど、日本語を共通語として繋がっていました。共通の言語でお互いの文化を知ることはいいなと思ったのが大学での経験なんです。

その後、釜山では中等教育に関わりました。釜山での仕事はそれまでと本当に大きく違っていました。わたしはその中等教育の第二外国語を教えるという経験をして、教育観が変わったんです。何が変わったかっていうと、正確性ってそんなに大事なのかということ。中等教育で何をするかというと、人として、人間として成長させることです。社会に出た時に自分のしたいことを実現できる力を身につけるのが大きい目標。そこで考えた時に、正確な文法が話せるとか、ひらがなを正確に書けるとか、大事なんだけど、それが一番ではない。何が大事かっていうと、異文化理解。言語を学ぶんだけど、自分と異なる文化的背景を持った人と接触したり、一緒に活動したりってときに、摩擦を少なくして仲良くできるかっていう能力の方が大事。

文化が違う人と一緒になった時に、どこ行きたいんですかとか、お手伝いしましょうかとか、困ってる人がいたら積極的に声をかけていくと。自分がたまたま日本語を勉強しているから日本人を見かけたら勇気を出して話しかけてみる。そういう子どもを育てる方が、正確な文法の子どもよりいいよねっていう話があって、わたしも釜山で3年勉強してから、そうだよなと思いました。わたしも韓国で生活しはじめた時は韓国の文化が全部わかっているわけではなかったので、理解できない文化があったりすると、えーなんでそんなことするのとか、品がないとか、そう思うこともあったりするわけですよ。でも、どうしてそういうことをするのかっていう、文化について理由を考えたり、聞いてみたりとかすると、そういうことかーってわかって、納得もできる。別に真似するかどうかは置いといて、そうかって理解できる、そこまでに至るのが大事だなって思います。自分の文化と違う文化を持った人と会ったときに、理解しようとしない、尊重しないよりは、まずは、尊重する。で、理由を考えてみる、聞いてみる。日本語っていう科目なんだけどその中で正確な文法とかじゃなくて、文化的に違う人がいる時に尊重して理解しようとして摩擦を減らしてうまく共存していくっていう能力を持った人を育てるのが教育だと思うようになりました。中等教育でやるとそうなったんです。だからわたしも前はすごく発音とか厳しく直す先生だったんですけど、とりあえず通じればいいっていうのと、頑張ってしゃべっただけでいいよね。そういう感じに変わりました。

釜山での訪問授業

言葉を通じて文化を教える

日本語の授業で大切にしているのは社会言語的な能力です。言いたいことを言うっていうのももちろん大事なんですけど外国語を話す時に相手に不快な思いを抱かせないようにするのが大事です。

例えば、韓国で、わたしともう一人の日本語の先生がいて、授業が終わって帰る時に「先生、先生」って、ある学生が近づいてきたんです。「藤田先生の授業はもう一人の先生の授業よりマシです」って言われて、ええ!?ってなって(笑)。悪気はないんですよ。韓国の語彙だと、「いい」と「マシ」とほぼ一緒なんですよね。比べること自体もよくはないんだけど、比べてきて、比べた上で褒めてくれたんです。私のことを褒めたかったんだけど、選んだ語彙が違うことによって、わたしが「何がマシなんだ失礼な!」ってちょっと怒っちゃったっていうことがありました。語彙の選択もそうだし、文法的には間違ってないけど話す人が伝えたいように伝わらなくて困るとか悪いように捉えられてしまうとかそういうことがないようにするのには気をつけますね。

だから、文化的な違いみたいなところも気づいてほしいので、韓国の授業ではそういう部分を入れていました。コミュニケーションの摩擦を減らすところに、わたしは気を使っています。例えば日本の文化を紹介するときに、韓国と同じところある?どこか違う?という授業です。韓国のおでんと日本のおでんが違うみたいに、名前が一緒だからなんとなく同じと思っているけど見せると違う。そういう授業とか。言語を使いつつ、文化の違いに気づいてもらう。

異文化を理解しようとする態度

韓国と日本では補償の仕方が違うと言われています。わたしは韓国人と一緒に住んだことがあるんです。キッチンとかトイレとかは共同で部屋が一個ずつっていうのに住んでいたんですけど。その韓国人の友達は、わたしが買ってきた牛乳とかすぐ飲むの。わたしが買ってきた卵とかすぐ食べるの。最初はええ?と思って。仲がいいから一緒に住んでいるんだけどなんで食べるのか聞けなくて。直接に本人に言えなかったので、別の韓国人の友達に聞いたんだよね、「一緒に住んでる韓国人の友達がね、わたしが買った牛乳を飲むし卵も勝手に手べるし肉も食べるんだよね。どうしよう」って。そしたら一緒に住んでるから、もう家族と同じ扱いになってるんじゃない。家族と一緒に住んでる時に別に冷蔵庫の牛乳に名前書かないでしょって言われたの。あ、書かないなと思って。そうなのか。日本って親しい友達も他人じゃないですか、一緒に住んでてもちょっと他の友だちと比べて親しいけど、でも他人。韓国人の親しい友達は家族ぐらいの範疇に入ってくるらしくて。あと別に気づいたのが私の牛乳とか卵とか勝手に食べたり飲んだりするんだけど、やたらと夜中に、チキンとかを注文して、一緒に食べようとか、そういう感じで、自分の中では帳尻が合っているというか。韓国の文化だと、同じぐらいの金額のもので返せば、しかもどっちかというと、より高いものを返そうとしたりするんだよね。でも、どうしてそういうことをするのかわからないと、勝手に人のものを食べるなんて礼儀を知らないなって思っちゃうんだよね。そういうとき、”信じられない、無理”じゃなくて、なんでそういうことをするのか、どういう文化があってそういうことをするのか、理由を考えたり調べたりできる人がいいなって思ったんです。すぐに遮断して、あの人常識がないみたいになるよりは。

摩擦を減らす

私がそのように摩擦を減らそうと思うようになったのは、ソウルにいた時、自分が辛かったからです。今思うと必要以上にショックを受けていた気がする。当時は初めての海外だし、郷に入っては郷に従え、全部を真似しなきゃならない、でも無理無理無理と思って泣きながら先輩に相談したりしていたから。今思うところは、違う文化の中、まずは相手の文化を尊重する、そしてどうしてなのか理由を考える、そこからとり入れるかどうかを見極める、その段階が必要だなということ。異文化の接触も今後どんどん増えるはずだから、苦しまないためには、やはり摩擦を減らした方がいいなと思うようになった。それは言語の問題だけではない、言語以外の部分、それ以外の文化も含めて、文化というかね、価値観、考え方みたいなところだと思うんですけど。文化の中にどっちか上か下かというのはないので、違うだけです。

五感で感じる移動

今インターネットで世界中の人と繋がることができるようになっているので、異文化に触れやすい状況だけど、やっぱり、移動して現地に行かないとわからないことがいっぱいあるなあと感じます。移動すると直接現地の人とコミュニケーションができるのがやっぱり楽しみというか、醍醐味というか、経験としてはいいかなと。異文化を理解するために必須まではいかないけどすごく効果的な方法が移動だと思います。私も大阪で生活した時は日本国内だけど文化が違うから、日本は広いなあって思いました。海外に行ってもそうだったし。温度だったり、匂いとかやっぱり行かないとわからないよね。オンラインのコミュニケーションもあるけど、やっぱり街の中に住むということで入ってくるいろんな情報、電車の中に乗ったときにいろんな人がいて、現地に行ってからわかることもあるし、移動は五感で感じるから、情報が多い気がする。体全体で感じるというのは異文化理解にすごく役に立つなと思っています。先輩から言われてすごくいい言葉だなと思ったのは言語教育をすると、子どもたちが、別の言語を覚えることで新しい価値観が増えて、世界がよりカラフルに見えるってことです。価値観が増えると許せる部分も増えて心穏やかになる気がします。移動することで見える世界が変わってきて、新しい価値観が増えて、より広い視野で物事が考えられるようになっていくと思います。

(インタビュー:2022年6月)

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