カテゴリを通した先にいるあなたと私

武蔵野美術大学

カテゴリを通した先にいるあなたと私

PEOPLEこの人に取材しました!

百瀬文(ももせあや)さん

アーティスト

コロナ渦で急速に発達したSNSによって、私たちは人々との関係性や距離感についていま一度考えなくてはならなくなった。その中で、百瀬文さんはアーティストとして変化していく社会と関わり続けている。このインタビューでは、彼女の作品やこれまでの活動の断片と、現在の考え方を聞かせてもらった。
写真 ©金川晋吾
トップ画像:《Jokanaan》(2019) 個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」より
〈プロフィール〉
1988年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了。主にコミュニケーションや身体性、セクシュアリティで感じる違和感や不均衡の問題意識を映像やパフォーマンスで表現している。

石ころを投げてやりたい

Q:美術を志したきっかけは何でしょうか。

中学2年生の時に、パニック障害になって学校に行けなくなっちゃったんですよ。みんなが学校に行って授業を受けている時間に、家で音楽をつくったりとか、 絵を描いたりとか、そういうことをやっていました。その中でやっていた表現っていうのが、抑圧された人間とか、そういうものを描くことでした。 その時期は、アメリカを主体とした連合軍によるイラク侵攻*があったときでしたね。そんな中、自分でどこにも行けないから、ひとりで部屋の中で反戦のための絵を描く、ってことをやったりとか。社会と繋がりたかったからこそ、家から出られなかったからこそ、そういうものをつくってたのかもしれないです。ぼんやりと、そのような作品づくりが続けられる場所ってあるかなと考えた時に、じゃあ美大行こうかなみたいな。 最初にアーティストになりたいって思った起点は、自分がそういうままならない体に 1 回なってしまったっていうことが大きかったのかなとは思います。

*2001年911日にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つのテロ攻撃のこと。

Q:中学校生活で、症状は進んでいったのでしょうか。

元々、私は性質的にじっとするのが苦手だったんですよね。人がいる空間の中で、ずっと同じ場所にいて動いちゃいけない状態になると、すごいそわそわしてきて、過呼吸になってしまうというのが中学校 2 年生ぐらいから起こり始めました。電車も各駅停車しか乗れないということがありました。だから自分の体っていうものを自分がコントロールできるということがもう既に 1 つの幻想なんだな、と。 近代的な自己みたいな、自分が自分を統制しているみたいな、そういう価値観が、いや違うだろ、という感覚が中学生ぐらいからありました。むしろ、常に体って自分の意思にかかわらず暴走するものという認識でした。でも世の中ってあんまそういうことがわからない。自分が健康な身体であることって、失わないとわからないじゃないですか。足を骨折することによって足の存在に気付くとか。

ある意味そういうままならない体を最初に抱えたからこそ、作品で身体のこととかを扱っているのかなとは思いますけどね。なんかちょっと、世の中に対して、石ころを投げてやりたいみたいな気持ちが多分最初あったんだろうなと思うんですね。

自分の体自体もこの世界を構成する 1 つのオブジェクトなんだ

Q:大学に入ってから油絵科で油絵を描かれていたと思うのですが、映像や、パフォーマンスといった表現方法に移行するきっかけはどういったものだったのでしょうか。

学部の3年生ぐらいまでは油絵を描いていたんですけど、 なんか限界があるなと。 四角い木枠に布を張ります、色をつけますってなった途端に、絵画っていうものができちゃうという仕組み自体が、制度的になんか守られているように思えて。これで絵画になるってどういうことなんだろうみたいなことをちょっと考えていた時に、自分の日常生活とその絵画の制度が乖離しているように感じたんですね。自分がやりたいことってこの木の枠の中に収めるべきことなんだろうかって考えた結果、もうちょっとその手前にあるもの、絵画そのものというよりそれを見ているこちら側の身体とか、なんかそっち側の方が気になってきたんです。

3年生の時にちょうどゼミに参加したんですけど、必ず毎日何か面白いアイデアを出して形にしなきゃいけないっていう1000本ノックみたいな授業があったんです。そんな中で出てくるものって、全然面白くないものとか普通にあるんですけど、そうしているうちに、自分の体自体もこの世界を構成する 1 つのオブジェクトなんだっていう風に捉えられました。それがきっかけで、 絵の具を使うよりも自分の体を使う方がいろんなノイズを取り込みやすくなりました。

私の場合は絵の具で何かを描くと、どうしても自分がコントロールできちゃうところがすごく大きくて。画家の人たちはその辺りの塩梅を探ってやってると思うんですけど、自分の場合、やっぱり全部コントロールしてしまうというか、そこから溢れてくるものがあまり見えなくなってきてしまって。体って例えばできること、できないことがあるじゃないですか。 関節はこれ以上上がらないしとか、いろんな躊躇がこう動くたびに生まれたりとか。表情とかもそうですよね。

そういう予期しないものは取り込みやすいなと思います。絵を描くより身体を使う方が、自分が予想していなかったものが見えてきやすいなっていうのは感じ始めていて、そこから身体を使う方が自然になってきたって感じでした。

百瀬文《Social Dance》2019 EFAG EastFactoryArtGallery

「映像の登場人物2人は、ろう者の女性と聴者の男性で恋人どうしという設定である。女性は、男性とソウルを訪れた時に「旅行者と気づかれると危ないからきょろきょろしないで」と言われて傷ついたことを訴える。「目で生きている」ろう者の自分を全て否定されたように感じたと。男性は謝りながら優しく女性の手を撫でる。しかし女性の怒りは治まらない。以前男性の口の動きからその意味を読み取れなかった際に「いちいち顔をしかめないでくれ」と言われたことに憤慨する。

聞こえない世界で、目から情報を読みとることが生きる術であるろう者と、「悪気なく」自分のやり方を通そうとする聴者のディスコミュニケーション。男性はなだめるように女性の手を押さえる動作を繰り返すが、それはろう者の口をふさぐ行為に等しい。女性の感情が高まるにつれ、男性の手は女の言葉をさえぎり、揉み合い状態になる。手を握るという慰めの仕草は、優しさから暴力へと変容する。」( The Asahi Shinbun Globe +「優しいコミュニケーションが暴力に変わるとき。百瀬文の作品が突きつける問題」〈2020年〉)より
https://globe.asahi.com/article/13108883

鑑賞者に負荷をかけている

Q:現代においてYouTubeTikTokなどの映像のSNSは、より速い伝達の手段だと思うのですが、そういったインターネット上の映像についてはどうお考えですか。

私は自分の作品をインターネット上に載せてはいないんですね。どういう違いがあるかっていうと、まずスクロールバーがあるかどうか。つまり、視聴者が作品を早送りしたり巻き戻ししたり、その体験の時間性を操作する自由があるか否かっていうことが大きいと思います。 なので、私はその自由をあえて視聴者には与えないようにしている。そのためにインターネット上にあげない。

どういうことかと言うと、多分私はある種鑑賞者に負荷をかけている自覚があるんですね。 ある展示空間の中で映像を投影して、映像ってしばしば尺が長いものもあるから、その時間を鑑賞者から奪っているとも言える。そういった負荷に鑑賞者を巻き込んでいるってことが自分の中ではあって。もちろん鑑賞者はそこから出ていくこともできるし、鑑賞者を拘束する訳ではないけれど。その場がそこに立ち上がって、鑑賞者が自分の体をそこに投じるっていうこと。

鑑賞者の体とその映像が持つある種の空気感というか、映像が持つ圧みたいなものがその鑑賞者の体に現実的に関わるっていうこと、何メートル×何メートルの空間か分からないけど、物理的に空間を共有するっていうことは自分の中では重要で、インターネットで体験する時の圧のかかり方は全然違うものになっちゃうなっていう気がするんですね。飛ばしながら見ることもできるし、途中で止めてトイレに行けたりするし。だから私はインターネット上では見せないかな。コロナ禍で結構オンライン展覧会とか流行りましたけど、その時もあまり積極的にはやらなかったです。

誰も傷つけない表現なんてない

Q:今の時代をどのように捉えていますか。

今、皆間違えることが怖いと思うんですけど、誰かが間違いを犯してしまった後、何を考えていたかといったことはそれほど触れられていない。間違えた時にその後何をするかが重要だと思うんです。そういう意味では、その人がその後どう変化していったかっていうこともちゃんと追いかけられるような人間になりたいなと思います。例えば何かの表現をしたときそれがある暴力になってしまった、そういった過ちを犯してしまった人がいた場合に、SNSなどではただその人だけを責めるだけで終わってしまうじゃないですか。でも、自分もその人と同じことをしてしまっていたかもしれない。個人だけでなく、大きな社会の構造がもたらしている問題もあるかもしれない。その人の過ちから自分たちが何を学べるかっていうふうに捉えられたらいいです。 

ある種、誰も傷つけない、不快にさせない表現なんてないって私は思っています。そこはある程度引き受けなきゃいけないことだと思ってるんです。それでも、他者の属性にかかわるヘイト表現などについては、決して表現の自由の俎上に載せてよい問題ではありません。その上で、私が何をやりたかったかっていう欲望の問題と、自分が引き受けなきゃいけない部分をその都度誠実にやっていくしかない。

現実にある暴力に気づかせるために、暴力をフィクションとして再演したり、アイロニーとして作品にするという表現がこの世界にはあります。今そういうことを、誰かが不快になるかもしれないということで先回りして自主検閲してしまうケースは結構あるのかなと思います。表現のなかで暴力というテーマを扱うことと、表現自体が誰かに対する暴力になることは違います。そのことについて考え続けていきたいですし、暴力というテーマ自体が不可視化されてしまうと、そっちの方が今後の未来においてどういう影響を及ぼすのかなということは考えます。

Q:社会で起こっている問題を作品で再現することを重視しているのですか。

そういう側面で語られることは多いんですけど、表現する時に、個人の目を通して社会で起こっている事象に接続させていくということを意識しています。 

個人のそれぞれのバックグラウンドだったりとか、みんなある普遍的な正しさを目指しながらもいろんな葛藤を抱えていることとか、そういう個人のディテールみたいなものが私は結構気になっている。いわゆる自分は理想的にはこういう思想を体現したいのに、でも現実の体はそう動けないっていうことだったりとか、 全然真逆の振る舞いをしちゃったみたいなこととか、そういうところで人間が1番面白いなって私は思うので。結果的にやっぱそういう人を描き出すということ、人間というものが持っている矛盾を描き出すことが、アートが得意とすることだなと思っていて。1人の人間、社会における問題やカテゴリを通してもそこに写ってるのは1人の人間であるっていうことをちゃんと見るっていうか。やっぱりそこを私は続けていきたいなと思います。

(インタビュー:2024年6月)

Related Articles関連記事

共生
ありのままの私が向き合うカテゴライズされる私

共生

ありのままの私が向き合うカテゴライズされる私

歌手、バーの経営者
ギャランティーク和恵さん

歌手や、バーの経営など多岐にわたる活動をしているギャランティーク和恵さんに、個々の表現の自由が尊重されている昨今で、自分がカテゴライズされることや、ありのままの自分を多角的に見せるにはどのようにするかという視点から、お話を伺いました。私たち…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学

あったかいお湯とあったかいコミュニティ

共生

あったかいお湯とあったかいコミュニティ

黄金湯店主・オーナー
新保朋子さん

黄金湯を、地元の方から銭湯を愛する方、銭湯に馴染みのない方まで様々な人が楽しめる新しい銭湯として経営し、日本の銭湯文化を未来に繋いでいくことを目指しています。新保さんが打ち出す新たな銭湯のかたちを伺う中で、銭湯と人との繋がり、ひいては新保さ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

パレスチナ~レンズの向こうの「第二の家族」

共生

パレスチナ~レンズの向こうの「第二の家族」

写真家
高橋美香さん

高橋美香さんは2000年からパレスチナに通い始め、そこで出会った「第二の家族」であるママとマハの二つの家庭での滞在を通してその日常を写真に収めています。この二つの家庭はどちらもイスラエルに隣接するパレスチナ自治区の、ヨルダン川西岸地区にあり…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

誰かの快は誰かの不快

共生

誰かの快は誰かの不快

感覚過敏研究所所長
加藤路瑛さん

私たちの班のメンバーの中には感覚過敏(具体的には嗅覚・味覚・聴覚過敏)があり、家族や周りの人と感覚に差があることで日常生活の中で苦痛を感じることがある人がいた。しかしこの班のメンバーはこれまで感覚過敏を持つ人が身近におらず親にもなかなか言え…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

海苔は食べるもの? 〜もう一つの視点で世界をのぞくデザイナー〜

共生

海苔は食べるもの? 〜もう一つの視点で世界をのぞくデザイナー〜

we+
林登志也さん 安藤北斗さん

we+は、 自然や社会環境からデザインの可能性を考え、歴史や自然、人工などの融合の模索をされている、コンテンポラリーデザインスタジオです。設立者は林登志也さん・安藤北斗さん。今年のインタビューテーマである「共生」という言葉すらもフラットな視…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

異なる文化のための建築:森俊子さんによるアプローチ

共生

異なる文化のための建築:森俊子さんによるアプローチ

建築家・ハーバード大学大学院デザイン学部建築科ロバートP ハバード実務建築教授
森俊子さん

異なるルーツや文化の人々の為に手がけたセネガルでの建築プロジェクトを中心に、教育者からの視点で、建築、文化、共生においての考え方について伺いました。 写真©Toshiko Mori トップ写真©Toshiko Mori…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

やはり、味はムシできない

共生

やはり、味はムシできない

Bistro RIKYU オーナー
角田健一さん

角田さんは21歳から2年間飲食関連の専門学校通い、一度は飲食業も離れるも、神奈川県茅ケ崎市のレストランで10年以上シェフを務める。とあるイベントで昆虫食に触れたことを機に、2022年2月に地元である藤沢市に、昆虫食も扱うカフェ&ビストロ「B…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学