料理界へ 天ぷらとともに過ごした青春
1980年8月12日、わたしは秋田県に生まれました。母親は小さい頃に亡くなり、よく覚えていないです。父親は元々工事の現場で大きいクレーン車に乗る仕事をしていましたが、わたしの若いころに亡くなってしまいました。
小学校で大学生が学校の先生に代わり、授業を担当する教育実習がありました。その時の私には、その先生が教育実習のためにここに来てくれたことが全然理解できていなかったんです。一ヶ月間ぐらいでその先生は大学に戻ったんですが、その先生とのお別れが寂しかったことを今も覚えています。
中学校の時には、歴史に興味を持っていました。特に日本の江戸時代についてよく学びました。江戸時代は当時鎖国で外国との交流があまりないので、日本文化を作り上げた時代だと思います。その文化は現代の日本でもたくさん残っています。今私がやっている天ぷらという食文化も江戸時代に生まれたものです。
私は高校も大学も行っていません。中学校を出るときに、料理屋さんが「修行に来ませんか」というお誘いをくださいました。私はそのお誘いを聞いて、秋田県にある日本料理店へ修行に行きました。16歳から25歳までずっと秋田県の日本料理のお店で働いています。
いろいろな種類の料理の本を集めて,たくさん勉強していました。25歳の時に偶然、早乙女哲哉先生が書いた天ぷらに関する『名人の仕事』という本に出会いました。本当に運命でした。「天だねとは必然性の結晶である」という一言が心を突き刺しました。「結晶」というのは「天ぷらとは偶然できるもんじゃなく、とても難しいもので、よく考えて作らないと、できないもの」という意味です。
その一言を分かりやすい言葉で言ったら、「最大公約数」ということです。私たちの毎日の目標はお客様に美味しい天ぷらを食べていただいて、幸せな気持ちになってもらうことです。その目標を達成するためには、たくさんの最大公約数を見つけなくてはいけないんです。最大公約数というのは「多く見つけましょう」という意味です。お客さんを幸せにするためにやらなくてはいけないことは、百や二百や千という数よりもっと多いです。たくさんの最大公約数、つまり、お客様を幸せにするためにやらなくてはいけないことをたくさん見つけられた人は、お客さんを幸せにできます。
そういう話を読んだ瞬間、心が動かされてしまって、早乙女先生のところで勉強することを決めました。どうしても早乙女先生に会いたい、お話をしたい、そして早乙女先生の弟子になりたいと思いました。
翌日、誰も言わずに一人で初めて秋田県から東京に新幹線で飛び出していきました。早乙女先生に会うまでは「色々なことを聞きたい、これも聞いてみよう、あれも聞いてみよう」という気持ちでいっぱいになっていましたが、早乙女先生と会ったら、緊張してしまって、もう何も話せなかったです。聞きたかったたくさんのことも全然聞けませんでした。でも、早乙女先生はそういう私の気持ちと心を考えてくださって、私が聞きたかったことをたくさんお話ししてくださいました。例えば、修行というのはどういうものなのか、どのようにすればお客様が幸せになるかということも話してくださいました。
「私が朝起きてから、準備をして、着替えて、体調を確認して、気温を確認して、天気を確認して、お客さんは今日暑くないかな、天気が今日は雨だから濡れてきたら大変だから、じゃタオルを用意しとこうかなとか。そういうことがたくさんあるんですね。それを全部やった先に初めて天ぷらをあげる。これこそが最大公約数だ」ということを教わりました。
日本では自分より先に修行に入った人のことを兄さんと呼びます。私は早乙女先生のところで勉強した兄さんが独立して、お店を出していたことを知っていました。早乙女先生の話を聞いた後、その兄さんのお店に天ぷらを食べに行きました。感動しました。その時に、早乙女先生のところで勉強すると、こんなすばらしい天ぷらの技術が覚えられるんだなと確信しました。
早乙女哲哉先生は日本で一番、世界でも一番の天ぷら職人だと言えます。先生のところに勉強に来たり、修行に来たりした弟子は誰でも早乙女先生になりたいという憧れや気持ちの強い人たちです。わたしも先生に会いに行くという強い行動力と勇気を持って、自分が修行したいという夢を先生に伝えました。だから、先生は私を受け入れてくださったと思います。
修行時代: 挫折とブレイクスルーの連発
修行はやっぱり大変でした。もう挫折だらけ、うまくいかないことだらけ、困ったことだらけでした。頭の中ではうまくいくイメージはありますが、実際やってみると、その通りに行くことは本当に少ないです。それで、うまくいかないのはどうしてだろうと常に悩んでいました。天ぷらを揚げることだけでなく、人間関係の悩みもありました。私たちは天ぷらレストランなので、常にお客様の相手があります。お客様のために、何ができるんだろうかと考えていました。自分には足りないことだらけだったので、たくさん悩んでいました。
私が東京で修行をしている時はまだ独身なので、相談できる人がいなかったです。誰にも話せないこともたくさんありました。悩みが心の中に溜まりすぎて、挫折を感じていました。自分はどうしたらいいかわからないぐらいにまでなってしまって、先生に何度も修行やめさせてもらいたいとお話しました。修行をやめたくはなかったのですが、修行の厳しさについていけない、修行をやめますというのも二回話しました。そうすると、早乙女先生は三日間ぐらい仕事来なくていいから、遊んでおいでと言われました。もちろん悩んでいましたから、遊びには行けなかったのですが、三日間ぐらい何もしないで家でよく考えました。「俺、こんなに根性弱くないよな」と思うと、新幹線で東京に来た時の気持ちが思い出され、もう一回向かうぞという気持ちが燃え上がりました。
新幹線で東京に着たときの気持ちを思い出すことは、実にたくさんありました。例えば、お店の仕事が終わって,お客さんが全員帰ると、お店の片付けをします。その後に弟子達は勉強会を始めます。天ぷらをあげる練習です。毎日勉強会で天ぷらの練習をしていますが、うまく揚げられない時が多くて、なかなか上達できませんでした。「これでは店長になれないよ」という壁のようなものがどんどん出てきました。この壁を壊すにはブレイクスルーを連発するしかないです。私は自分を信じることでブレクスルーができると思っていました。
早乙女先生に褒めていただいたエピソードもあります。休みの日にもお店に行って、自分のお給料で食材を買って、一人で天ぷらを揚げる練習をしていました。たまたま先生がお店に来て、練習して揚げた天ぷらを食べてくださいました。先生は「明日からお昼の天ぷらをあげなさい」とおっしゃいました。これは「明日からお昼の営業はわたしがお客さんに天ぷらを揚げていい」という意味です。自分の努力が先生から認められてくれてうれしかったです。努力してよかったなと思いました。
「もっと頑張るよ」10年前の自分に対して、そう言いたいです。私は早乙女先生に一回だけドーンと怒られたことがあります。実は早乙女先生は人を怒ったり、叱ったりすることを一切しない人です。私たちが分かるまで同じことを百回でも千回でも言ってくださいます。例えば、これを片付けなさいと言われても、また片付けなければ、百日連続でも千日連続でもこれを片付けなさいと忍耐強く怒らずに言う人です。だけど、私は少し仕事を覚え始め、自信がつくと、「偉くなった、仕事ができる、自分はすごい」というような勘違いを起こしてしまいました。大人から見ると、若い私は自信過剰でしかなかったです。天狗になっていたとも言えるでしょう。普段怒ったことのない先生が怒ると、やっぱり怖かったですが、叱っていただいたおかげで、生意気な心が謙虚な心になりました。
東京で修行した4年間がなかったら、今の私はいません。4年間ずっと諦めないで、修行をやり続けることができたのはやっぱり早乙女先生のようになりたいという憧れだと思います。早乙女先生は私たち弟子が困っていると、必ず手を差し伸べてくださいます。その優しさが好きです。早乙女先生の天ぷらに対する姿もかっこよくて、今も憧れ続けています。
起業時代:故郷で夢を叶える 故郷に幸せを伝える
修行を始める時には自分のお店を持つという目標がありました。目標に向かって、頑張っていきました。先生が「もうあなたは自分でお店をやって大丈夫だ」と思ってくれたので、4年間の修行を終えました。
修行期間は5年の人もいれば、10年、20年の人もいます。自分でお店が開けるようになるまでの時間は人によって違います。ただ、私は秋田の日本料理屋で10年間修行していましたから、早く終えました。秋田で10年、東京で4年、全部で14年間でした。本当に長い時間でした。天ぷらはもう家族になったような感じがあります。
最初は、東京でお店を開きたかったです。でも、1年、2年、3年、4年間を経て、修行しているうちに、自分の生まれた秋田県は食材としての魚、野菜、お米、お水、空気などに恵まれていた町だと気づいてきました。秋田に住んでいた時にはその魅力が当たり前すぎて、気づかなかったんです。そういう理由で、秋田でお店をやろうと思いました。
私はお店が魅力的であれば、場所は関係ないと考えていました。ですから、繁華街ではないところでお店を開きました。
お店の宣伝は一切してないです。誰かが食べに来て、お店を気に入ってくれると、その人がまた友達や家族を連れてきます。誰かが誰かにお話をして、その話を聞いた人が来てくれる。その積み重ねが一番の宣伝だと思います。
お店を始めたばかりの頃は毎日お客さんがほとんど来ませんでした。お店を開けても今日のお客さんは二人だけ。次の日もお店を開けましたが、お客さんは一人だけ。そういう状況が3ヵ月か4ヵ月ぐらいありました。お客さんが少ないのを悩んでいました。今は毎日お客さんがいっぱい来てくれます。本当にありがたいです。
去年、コロナの状況で4月と5月には感染者がたくさん出てしまいました。緊急事態宣言の影響でロックダウンにもなっていましたから、お店を1ヵ月ぐらい休むことにしました。ロックダウンの後に、今までのお店の常連さん皆が次から次へと駆けつけて来て、心配してくれました。それも本当に嬉しくて、ありがたいことでした。
家とお店は一緒なので、お店の二階に住んでいます。朝6時に起きて、すぐ朝ごはんを食べて、歯を磨いて、すぐお店に行きます。朝の6時半ぐらいからお店で天ぷらの魚を準備したり、掃除したり、野菜をすったり、お出しを引いたりして、仕込みの準備をします。その後に仕入れに行って、12時からお昼の営業が始まります。12時から午後の2時まではお昼の営業です。営業が終わって、15時まで片付けます。15時から16時半までは休憩、17時からまた仕事を始めます。12時ぐらいまでの夜の営業が終わってから、2時ぐらいになるまで色々本を読んで勉強したり、調べ物をしたりします。やりたいことが多いですから、寝るのはもったいないです。しかし、それでもう十分です。お店の仕事は大変なことではなく、逆に楽しいことだと思います。
今と修行中とで何か違うかというと、覚悟の量です。修行の時は失敗の連続ですが、その失敗は必ず先生と兄弟子が必ず助けてくれました。自分でお店を始めると、何か起きた失敗は全部自分で修正しなければならないです。助けてくれる人はもういなくなり、私がお店の全員を助けてあげられるようにならなきゃいけないです。従業員のことも、アルバイトのみんなの生活も守りたい。みんながうちで働いていてよかったと思ってほしいです。そういう意味で覚悟が強くなりました。簡単に言えば、修行中は未熟な子供でした。お店を始めて、ようやく大人になれました。子供は失敗を許してもらえますが、大人になると、なかなか失敗してはいけなくなってしまいました。
みんなを幸せにしたいです。私とおかみさんだけでなく、うちのお店で働いてくれる仲間も、バイトをしてくれている大学生の子達も幸せにしたいです。そして、食べに来てくれたお客様も幸せにして、幸せな気持ちで帰っていただきたいです。そうしたら、食べに来たお客様もそれぞれ幸せな気持ちで次の仕事に迎えられます。自分もまた仕事で頑張って、誰かを幸せにしようと思ってもらえるようになることに憧れています。
笑顔でお客様をお迎えしています。お客様が自分で不便だと言うことは少ないです。だからこそ、お客様の不便を私たちが気づいてあげたいです。そう考えながら準備しています。そして、毎日お客様から嬉しいことをもらっています。お互いに幸せになったら、明日も頑張れちゃう気がします。
天ぷらで繋がる 家族との大切な絆
秋田に帰ってきて、兄と奥さんのお姉さんが結婚しました。そのご縁があって、奥さんと出会い結婚しました。「北嶋」はわたしがお婿さんとして奥さんからいただいた苗字です。奥さんのお父さんを幸せにしていきたいと思いながら、この苗字を使っています。奥さんのことが大好きなので、もし困ったことがあったら、まず一番に私の奥さんに相談します。それから、奥さんの家族にも相談します。家族みんなが仲良しです。
今、小学校4年生の娘がいます。娘には特別な日やお祝いのときに天ぷらを食べさせます。例えば、娘が3年生から4年生になって進級した時です。天ぷらは家族の中の繋がりのような存在になってきました。休みの日はいつも娘の行きたいところに行きます。例えば、公園や水族館などに行ったり、お花を見に行ったりしています。奥さんはお店のおかみさんとして、朝から夜までずっと一緒に仕事しています。家に帰ってからも一緒で、毎日二十四時間ずっと一緒です。奥さんがいないと、お店もできないです。家族に対して、今が一番伝えたいのは感謝しかないです。家族がいるから、頑張れます。
天ぷらを世界へ発信 極致へと歩む人生
私にとって、天ぷらというのはあり続けなければいけない文化だと思っています。ですから、残していきたいです。私が早乙女先生にしていただいたように、気持ちがあって向かってきてくれる子がいれば、一生懸命育てたいと思います。
ただ、私のお店にも修行したい子が何人もいましたが、我慢が足りなく、最後までできないほうが多くて、やめてしまいました。料理の世界だけでなく、どの仕事にとっても同じですが、最後まで続けられる人は実に少ないです。
日本を代表する天ぷらの食文化をもっと世界へ発信したい、外国でも知っていただきたい、正しく理解していただきたい、そして、世界中に天ぷらの文化を広げていきたいという気持ちが強いです。コロナの前は海外でお店ができないかなとずっと考えていましたが、今のコロナの状況を見ると、なかなか身動きが取れないです。コロナが収束し、外国人がお店に来たら、ぜひ天ぷらをコースで食べてもらいたいです。
今は自分でお店を始めて7年目になりました。毎日お客様の前で天ぷらを揚げますが、今でも緊張しています。「今日も来てくれる人を幸せにできるのかな。今日も自分のベストを尽くせたかな」という気持ちを持って一生懸命にやっています。
職人とは、少しでも成長するために毎日ベストを尽くしてる人ではないでしょうか。昨日より今日の方が天ぷらの技術が高くなり、今日よりも明日の方が高くなる。わたしは自分を職人だと思って、極致を目指し、極致になりたいです。
死ぬまで続けたい、じじいになっても天ぷらをやり続けたいです。
「秋田 天ぷらみかわ」ホームページ:http://akitamikawa.com/
(インタビュー:2021年6月)