1988年創立以来、さまざまな要因で心に傷を負った世界中の子どもたちへ物資の寄付を続けている。子どもたちの精神的なよりどころとなる施設「キッズ・アース・ホーム」をクロアチア、ベトナムなど世界12か所に設置した。世界中で子供たちに対して絵を描くワークショップを行い、3000回を超える絵画展を開催。子どもが描いた絵は様々なデザインに使われ基金となり、世界中の子どもたちに還元している。(子供地球基金ホームページより抜粋)
設立のきっかけは息子のために作った幼稚園
私は難産で子どもを産みました。医者から第2子は産めないと言われ、じゃあもう息子に兄弟ができないということで、友達を作るために早くから幼稚園に入れようと息子を入れる幼稚園を探したんです。しかしなかなか納得いくところがなくて、自分で幼稚園を息子のために作りました。私の作った幼稚園は、子どもたちに自分の得意なことで自分を表現する「表現教育」に特化していました。子どもたちは得意な歌を歌ったり、ストーリーを作ったり、そうやっている中で、私の息子は絵を描くのが大好きだったんです。この絵は当時4歳だった息子がその幼稚園で描いたものです。子供地球基金の今のロゴになっています。
地球人の一員として小さな子どもができること
私のやっていた幼稚園では、表現教育に特化しゼロから想像力を搔き立てることをしてきました。もう一つ、子どもであっても自分が生まれてきた限りは、地球人の一員として何か自分の能力を社会に還元しなきゃいけないというのがカリキュラムとしてありました。例えば近隣のごみ拾いだったり、老人ホームで歌を歌ってお年寄りを励ましたり、末期がんの患者がいる病床にカラフルな絵を描いて元気が出る絵をプレゼントしたり。そういった活動を日課にしていきました。小さな子どもでも意外とできることはあるんです。
純粋な心をもつ小さな子どもだからこそ描ける絵
無垢な気持ちを持つ純粋さとか、まだ宇宙と繋がっているような神聖でまっすぐな子どもはそのピュアな気持ちを絵で表現することができます。それは子どもにしかできないことです。その子どもの純粋なやさしさっていうものがあれば、世界をよりよい方向に変えていくことができるよねっていうことで、子供地球基金の活動が始まりました。
日々の活動から国境を越えて世界へ
世界中に広がる支援
海外にまで活動を広げようという計画はなくて、どちらかというと、私たちの活動を伝えて、こんな子どもがいるんだけど一緒にできませんか?というような投げかけだとか、リクエストをもらって動くことの方が多いのです。1996年にクロアチアの支援を始めたのも、クロアチアで戦争の体験をした日本人の音楽家の方が、ヨーロッパで子供地球基金の活動を知って、自分にもできることはないかと手紙を書いてくれました。手紙を読んで、もうすぐにクロアチアに行こうということで数日後に私は渡航しました。当時は戦争孤児のホームを作って、今でも戦争によって心が傷ついた子どもたちにアートのワークショップを行う場を提供しています。世界に広がっていったのは、戦略的にとかでなく、毎日活動し人や国との出会いが次々あって、必要な時に行動をし続け、32年目になったということなんです。
遠くの国まで通じる思い、そして新たな場所で次の活動へ
昔イランイラク戦争中に、物資の支援と共に、子どもたちと戦争をやめようと訴える絵を描きました。そういった活動をCNNがドキュメンタリーにして取り上げてくれて。またそれを見たニューヨークに住んでいる女性が、自分もおんなじようなことをニューヨークでやりたいと手紙をくれて。その方が初代のニューヨーク支部の代表となりニューヨーク支部が始まりました。すべては偶然の連続で毎日の活動から繋がって、連鎖して、海外でも活動ができています。
海を超えても同じように私の思っている思いに賛同してくださる方がいらして活動が広がっていったんです。
カルチャーギャップを埋め、心を通じ合わせるアートの力
活動が広がったことで外国の方との取引も多く、困難はもちろんたくさんあります。こちらがいいなと思うことと、向こうがいいなと思うことは必ずしも一緒じゃないとか、そういうカルチャーギャップは大きいと思います。でも子どもたちが絵を描くことで表現したことは、文化の違いや言葉も超えて、見て伝わり感じることができるんです。世界中で3000回をも超える子どもたちの絵の展覧会をあらゆる素晴らしい場所で開いてきました。楽器を演奏して人を癒すには楽器を弾く技術や道具が必要だけど、絵っていうのはお金がなくても、指一本あれば大地に指で絵を描ける。一番原始的だけど表現する手段として今できるということ、これが私の選んだ手段なんです。
子どもの描く絵は、子どもの純粋な気持ちで描いた絵っていうのは人に訴え、カルチャーギャップすら乗り越える力があるんですよね。
一番に応援してくれたのは息子だった
家庭と仕事の両立は、まあ大変なのは当然です。コロナ前、多い時はだいたい月3回海外に行っていました。連絡がきて、こんなところにこんな状況下にある子どもがいますってなるとその場所に飛んで行ったりで。
誰が一番応援してくれたと思う?息子なの!
世の中の人から自分の子どもを置いて他の国の戦争地にいってどうするんだとか、もちろんたくさん悪口も言われました。でも世間からの悪口があったって、その場で困っている子どもたちに寄り添うっていうことに対して一番価値を認めてくれたのが息子です。息子はいつでも「ママしかできないよ、ママいったほうがいいよ。」って背中を押してくれました。子どもが一番応援してくれていたんです。
私の原動力
私は仕事をする上で、子どもが作り出すアートの素晴らしさからすごく元気をもらっています。アートの力ってものすごく大きいと思うの。
有名な作家でなく子どものアートっていうのに私はやっぱりすごく魅せられていて、それが自分の原動力になっているんです。
もう一つ、子どもが自らアクションを起こしていくようになる姿を見るときにやっぱりすごく嬉しい気持ちになってモチベーションがあがりますね。例えば大阪の池田小学校で殺傷事件が起きたとき、教育委員会の要請で現地に向かったのね。授業に入って、子どもと絵のワークショップをしたり、いろいろなお話をしたりしました。そこには自分たちを置いて逃げてしまった先生に対する不信感や友達が死んでしまって悲しい気持ちを持つ子どもたちがいました。私は彼らに「でもね、世界には親が殺されていなくなったり、学校がなくなってしまったりする子がたくさんいるのよ」っていろんな話をしたら、自分が悲劇のヒロインではなく他の子のために何かできるか考えようって言ってくれて。それから一年後同級生を亡くした子どもたちが募金活動をして毎年お金を基金に送ってくれるようになったんです。自分が苦しい経験をしても、もっと苦しんでいる子がいたら何かできるんじゃないか、と発想を転換できるようになるっていうのは、素晴らしいことです。
絵を描くことで自分自身と向き合い、自分の心に耳を傾けることで自分で自分をカウンセリングできます。苦しい状況であっても次に踏み切っていく希望や力につなげていく機会を「絵を描く」ということで作りだすっていうのかな。白いキャンパスに絵の具を落として何かアートができたり、絵を描くことで、お金を産んで他の子どもをサポートできるっていうこととか。どんなに苦しい現場であっても自分がやってもらう立場じゃなくて、絵を描くことで他の子どもをサポートできる立場に回れるっていうことがすごく大切なことだと思います。
私がやっている活動で一番大切なのは、絵を描く行為をしながら子どもの心の中に花を咲かせていくことなんです。
(インタビュー:2020年10月)