1992年に京都の浄土宗・月仲山称名寺で生まれ、現在・副住職のお坊さん。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退後、デジタルエージェンシー企業・インフォバーンに入社。2018年に独立、現在はコラム連載など文筆業をするかたわら、「忘れたいけど、忘れられない失恋」を供養する「失恋浄化バー」や、心の片隅にある捨てきれていない未練や思い出といった煩悩を供養する「その煩悩、供養しナイト!」といったイベントを企画している。
「煩悩クリエイター」という肩書きには、どのような思いを込められたのですか?
正直にいえば、自分自身が煩悩まみれだから、ですかね。当たり前だけど、美味しいもの食べたいって思いはあるし、下心だってある。でも、お坊さんってそういう煩悩からは解き放たれたフリをするじゃないですか?一方で、一般の人は僧侶だって同じ人間で煩悩まみれだってことをもうすでに知っているんですよね。なのに、そこをぼやかすからコミュニケーションが上手く成立してないと思っていて。だったら、自分に煩悩があるということをさらけ出して、その欲望と向き合うことを、自分の僧侶のスタート地点にしようと思いました。それが煩悩をテーマに活動する理由です。
人間のオブラートを剥がしていく、みたいな。
そうそう。ボヤッとしている人が一番信用できないじゃないですか。なのに良いこと言うみたいな人って、世間一般から見て一番信頼できないタイプの人だよなぁと。正直に人と向き合うコミュニケーションを大事にしています。
SNSなどを利用して、仏教の教えをただ伝えるのではなく面白おかしく伝えるという考えに至ったのは、どうしてですか?
まず、自分自身がめちゃくちゃ面白いものが好きだからですね。あとは、お釈迦さまの考えに、対機説法というものがあって。聞く相手の個性や能力に合わせて説き方を変えるんですよ。なので、仏教の経典はお経ごとに言っていることが全然違ったりするわけです。だから、僕も面白いのが好きな人用に面白く仏教を表現しているつもりです。
また、一年半ぐらい、デジタルマーケティングの企業で働いてたんですけど、そこでコンテンツマーケティングというものを学んで、その影響もあるかもしれないです。
コンテンツマーケティング?
簡単にいうと、企業はむやみやたらに宣伝するんじゃなくて、ユーザーの状態に合わせて最適なコンテンツを届けましょうっていう考え方です。例えば、どれだけ瞬間接着剤を宣伝したくても、ユーザー側からすれば、そもそも物が壊れたりしない限り、瞬間接着剤の情報なんて要らないじゃないですか? でも、今まさに店頭で買おうとしてる人にとっては、どの接着剤がいいのかっていう情報があったほうがいいでしょ?相手の気持ちになって情報を編集して伝えるのが、コンテンツマーケティングの基本なんです。だからお釈迦さまって、2500年前からコンテンツマーケティングやっていたなあ、と。
相手の気持ちになって伝えるということですね。
そういうお釈迦さまの姿をリスペクトしていたり、自分が会社で学んできたものがあったので、仏教に対しても同じスタンスなんだと思います。自分が一緒に生きたいと思う人に対してちゃんと届くコンテンツを作りたいんです。仏教はおじいちゃんおばあちゃんのものっていうイメージがまだあるじゃないですか?僕はやっぱり若い人たちと一緒に生きたいんですよ。一緒に年老いていきたい。なので、若者向けのコンテンツになっているのかもしれないですね。
若者に伝えたいとのことですが、実際の仏教はどのような状況なのですか?
どういう状況かというと、現状維持では厳しい状態ですね。まず、一番センシティブな経済的な話からいうと、檀家制度という今まではお寺を支えてきた仕組みが崩れてきています。檀家というのは、江戸時代から続くお寺のファンクラブみたいなもので、「このお家はこの寺の檀家」という風に、家と寺があらかじめ結びついていたんです。檀家の方が亡くなったらお葬式をしたり、お盆には仏壇を拝みに行ったり、その御礼という形でお布施をいただいてお寺は収入を得ていました。でも、そもそも「家」という概念自体がなくなってきてるじゃないですか。「うちは先祖代々から続く○○家で、この家を未来永劫守っていかないといけない」みたいな意識を持っている人はかなり稀です。
たしかに、家族の繋がりが希薄になっている感じがします。
そうなんです。なので、家制度の上に成り立っていた檀家制度も崩壊しています。だから、少しでも日常的にお寺と接点を持ってもらおうとお寺業界は考え始めていて、現状はイベントなどを開催するケースが増えました。
お寺でヨガとかマルシェとか、ときどき見かけますね。
開かれたお寺を目指すところが増えましたね。でも、そこにも課題はあると思っていて。「とりあえずお寺に人を呼ぼう!」っていうスタンスの寺が多いんですよ。「一日イベントを開催して100人集まりました」、で?っていう。結局仏教は伝わったの?深い接点を持つことができたの?自分の修行につながったの?そう尋ねてみて全員が自信満々に頷けないのは確かだと思います。
他人を巻き込みながら、自分も修行していかないといけない…… 現代のお坊さんは難しそうです。
あとは、そもそも「お坊さんいる?」っていう(笑)。自分自身がそこにめちゃくちゃ葛藤があるんですよ。例えば、お葬式に意味を見出さない人がいるし、そもそも宗教って怖いなぁって人もいる。価値を感じていない人に、無理やり教えや文化を押し付けるのは絶対嫌じゃないですか。ましてや、自分自身が納得できていないものなら尚更。僕はお寺出身ですけど、ごく一般的な子どものように育てられてきました。それで、いきなり21歳の時に仏門を叩くことになりましたけど、当時は「やばい職業になってしまったなぁ」と思ってました。だから、自分自身で、僧侶として生きる意味を見つけたい、お寺に生まれてきたことを肯定したいという思いがあって。
お寺に生まれてきたからこその、悩みですね。
でも、仏教の教え自体はめちゃくちゃ面白いんですよ。合理的だし、現代に生きる人の心にも刺さる強度を持った素晴らしい教えの数々です。やっぱり2500年前から受け継がれるだけのことはあるなぁと勉強しながらいつも感動してます。例えば、色即是空って有名な言葉ですけど、要するに、この世のすべてのものは「空(くう)」だって言うんですよ。すべてのものは実体を持たずに、少しずつ変化し続けている。だから、自分っていう固定的な存在もなければ、あなたっていう固定的な存在もない。すべての存在がつながっていて、どこにも境界は存在しないんですよね。だから、僕たちが「僧侶」や「仏教」と思っているものも、ある意味実体はない「空」なんだと思っていて。
仏教自体が「空」なんですね。
いわば、すべてを「空」と説くその教え自体に、自動的にアップデートしていく装置が備わっているんですよ。だから今こそ、僧侶やお寺、仏教という存在を一から問い直したいなと思っているんです。そうしないことには自分も納得できないし、少なくとも寺院を取り巻く現状を打破するアイデアは生まれないんじゃないかと。僕が今模索しているのはそういう思いからです。例えば、いろんな視点で仏教を見つめてそれをコラム形式でコンテンツにしたり、寺院と檀家という関係自体をエンタメにして寺主制作映画を作ったり、僧侶という存在を一から考えるために家出をして、他人の家に泊めてもらって生活をしたり。仏教と聞けば、古臭いイメージがあるかもしれませんが、その教えはいつの時代においてもスタンダードになる思想だと、僕は信じています。
(インタビュー:2019年6月)