ダイバーからソーセージ店オーナー!?

武蔵野美術大学

ダイバーからソーセージ店オーナー!?

PEOPLEこの人に取材しました!

今井愛さん

「Bukit Sausage (ブキットソーセージ)」オーナー

札幌で保育士をしていた今井愛さん。友達にスキューバダイビングに誘われ、水中で息ができるなんて!と衝撃を受け、夢中になった。そして25歳の時、インストラクターの資格を取るべく、ワーキングホリデー制度*でオーストラリアに渡る。しかし彼女はインドネシア・バリ島に移住して約13年経った今、そこで無添加ソーセージを作っている。日本で保育士、海外でダイビングのインストラクター、日本語補習校の幼稚部の先生、ソーセージ屋さんをしてきた彼女。一体、まったく異なる世界に飛び込み挑戦する勇気はどこから来ているのか、彼女の原動力とは何なのか、お話を伺った。

*ワーキングホリデー:文化の中で休暇を楽しみながら、滞在資金を現地でのアルバイトで補うことが認められている制度。両国間の相互理解、友好関係を促進することを目的としている。

バリの海でインストラクターをする今井さん

水中で息ができるなんて!

Q:移住はとても勇気がいることだと思うのですが、そのきっかけは何だったんでしょうか?

スキューバダイビングのインストラクターになりたいと思ったことです。私は元々札幌で保育士をしていて23歳の時に保育士の友達から誘われてスキューバダイビングに出会ったんです。それがすごい衝撃的で、「水の中で息ができる!」ことが私の人生で一番びっくりしたことでした。
最初にもぐった海は北海道の海で、カラフルな熱帯魚とかいないんですよ、もう銀色の魚ですよ。アジとかそういう美味しい魚ですからね。だから最初はすっごい綺麗っていうダイビングじゃなかったんです。だけど、水の中で息ができる感動が本当にすごかったんですね。それからハマってしまって、スキューバダイビングのインストラクターになりたいと思ったんです。
それで、どうやったらなれるんだろうと考えた時にワーキングホリデーという制度があって、オーストラリアでダイビングのインストラクターの資格を取れることを知ったんです。そのときは、もちろん海外に行く緊張とか金銭面の不安とかがあったんですけど、それよりもダイビングが本当に大好きになっちゃって、「もう行きたい!」っていう気持ちがすごく強くて、目標を決めてお金を貯めて25歳のときに渡航したんです。それから毎日オーストラリアのダイビングのクラスに通って、約8ヶ月後にバリで就職しました。バリを選んだ理由は、私が最初にスキューバダイビングをしたときのインストラクターさんが、昔バリでダイビングの仕事をしていた人で、その人に憧れて、一度も行ったことの無いバリで就職しました。

お父さんはゴーサインだ!!

Q:初めて移住する際にご家族の反応ってどうでしたか?

父は中学校の英語の教師だったんで、海外に何回も行ったり、外国人の友達もいっぱいいたり、仕事でも関わっていたりしているから海外に対しては自由な考え方だったんですけど、女だし、まだその時25歳ってこともあって、自分の娘が離れていくことに最初は戸惑ったみたいですね。
なので、初めオーストラリアに行く時、網走にある実家に電話したら、お父さんに「そんな急に言われても困る」みたいな感じのこと言われちゃって、それで私が「じゃあもういいよ、私がどんなに行きたいかわからないんだね!」って電話切ちゃったんですよ。
でも、15分後ぐらいにまたお父さんから電話かかってきて「お前の気持ちはわかった、お父さんはゴーサインだ!」って言ったんですよ!それがすごく面白くて。お父さんが涙声で、私も電話切った後、泣きました。
お父さんも、私が小学校6年生の時にカナダへホームステイに出したり、英語の教師として生徒に海外に目を向けることが大事だと教えてきたりしたのに、なんで自分の娘が海外に行くことになったらそれを許せないのだろうというのはすごく葛藤したみたいですね。それでこれは自分の力で頑張らないといけないと思いましたね。

私、どこでもやっていける!

Q:移住後に日本に戻りたいと思ったことはありますか?

思ったことも何回かあると思うんですけど、オーストラリアではまだ思わなかったんですよね。ずっと日本人のつながりがあったんで。結局、オーストラリアの生活はそんなに厳しくなかったんですよ、今思えばね。自分で就職先を決めてバリに行ってからがやっぱり大変だったんです。バリに行ってから本当に誰も周りに話せる人がいなくて、泣きながら親に電話したりとかもして。なんでこんな田舎に来ちゃったんだろうって、もう何もかもが違って、日本生活と。でもそれでインドネシア語はすごく上達したと思います。

Q:インドネシアに降り立った時に結構寂しい思いをされたと思いますが、その時に何が心の支えになりましたか?

私は最初インストラクターになりたいとか勢いでバリに来ちゃったんですけど、ダイビングセンターに女性のスタッフが一人いて。その人がもうすっごい世話を焼いてくれて、おうちに呼んで一緒にご飯食べさせてくれたり、バリのいろんな宗教的なお祭りなんかに連れてってくれたり。温かい人たちが少しずつ助けてくれるようになったのが、なんとかやっていけた理由かなと思うんですよ。

ダイビングのお客様との2ショット

Q:移住する前と後でのご自身の心境の変化とか何かありますか?

強くなるんですよ。急に自分一人で決断を迫られたりとか、ピンチを自分一人の力で何とか切り抜けないといけないとか、起こってくるんですよね。日本みたいに治安が良くない場所もありますし、きっと私どこに行っても周りに自分の世界を作って、コミュニティを広げていけるんだろうなって思えるようになるんです、なんかそういう自信はついたかな。

今井さん(中央)と児童養護施設を巣立ったばかりのスタッフ。Bukit sausageでは養護施設の若者を多く雇用している。

直感とか、ワクワクとか、信じているかも

Q:今井さんの行動力の源みたいなものはありますか?

直感とか、自分のワクワクとか、そういうの結構信じているかもしれない。
昔は全然、積極的とか大胆なことをする人じゃなかったんですよ。だから、スキューバダイビングに出会ったのは、もうすごい衝撃的なことだった。それでお金貯めては綺麗な海にもぐったりしてたんですよね。出会ったから行動したっていうだけで、出会っていなかったらわからない。ずっと、保育士だったかもしれないし。

開設当時のBukit sausageカフェ

Q:なんでソーセージを作ったんですか?

子供が1歳半くらいになった時にいろんなものを食べさせるようになったんですよね。日本では添加物がない加工品とかがたくさんあると思うんですけど、インドネシアでは安全なものってすごく少なくて、だからみんな手作りしちゃうんです。ソーセージとかハムって癌の元になる添加物が多く入っていると言われていて、でもやっぱり子供の好きなものなんですよね。それを自分で作れるんじゃないかなって最初思ったのがきっかけです。バリはバリヒンズーっていう宗教で豚がごちそうで、豚は新鮮なのがどこの市場でも手に入るんです。でもソーセージは生の豚の腸から買って塩で洗って、とか面倒くさいじゃないですか。だからみんなが面倒くさがるもので、いいものを作ったらみんなが喜ぶんじゃないかなって思いもソーセージにしたきっかけだったかもしれないです。

Q:添加物によって保存状態や色をよくしたりすると思いますが、無添加では保存や発色が大変ではないですか?

そうですね。特にソーセージとかハムに使われる添加物はまず保存料、着色料、元々あるお肉の量を増やすような膨張剤だったりとか。うちのソーセージは本当にお肉そのままの色で、 例えば、サラミは乾燥させて作ってるんですけど、色が真っ黒なんですよ。それをわかってくれる人が買ってくれるっていう感じですね。 賞味期限も短いし、冷凍じゃないといけないし、色もいいわけじゃないし。でもやっぱり結着剤のいらない新鮮なお肉を使っています。

Q:その際、苦労した点などはありますか?

仕入先も最初は新鮮なお肉をくださいって言ってるのに、まだお得意さんになってないときは冷凍しちゃうようなところを持ってきてうまくソーセージが作れなかったりとか、言った通りにもらえなかったりとか、 最初はあまりうまくいかなかったんですが、私がうるさくやってるうちに関係も良くなってきて良いものができるようになりました。

「 Bukit Sausage 」の無添加ソーセージ

農場を作りたいな!

Q:今井さんがこれからやってみたいことはありますか。

あるんですよ、これからやってみたいこと!
オーガニックの野菜を買ったり、成長促進のために注射は使っていないというところから豚を仕入れたりしているのですが、自分で管理できたらいいなと思って、農場を作りたいと思っています!オーガニックのお野菜とか、放牧してストレスがない豚、鳥にしてそういうのを本当に出来たら筋が通った仕事ができるんじゃないかなと思うんです。でもそれはきっと時間のかかることだから、ゆっくり自分のこれからの長い仕事にしようと思って、今準備している最中です。
結構美術系のことも大好きで。私も美術系の専門学校に行きたいの、実は。これから何年後かわかんないけどいずれ。それも一つの夢かな。 一年でもいいから、美術系の専門学校に行ってみたいなって思っています。

(インタビュー:2020年6月)

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