幼い頃から望んでいた海外での生活
小学生のころから、私は絶対に海外に住みたいと思っていました。日本は大好きですが、小さい頃からいろいろなところを旅行したいと思いました。
ブラジルには世界最大の日系社会があります。ブラジルにおける2017年の調査では、ブラジルに約478の日本人会があり、日系人は約200万人もいます。昔から日本語学校があって、日本語教師がたくさんいます。 JICA日系社会青年ボランティアで派遣されることが多くて、私の時には同期が20名ぐらいいました。JICA日系社会青年ボランティアの日本語教師で2005年に来たので、それが最初のブラジルです。派遣されて2年ブラジルにいて、初日から「ここだ、ここだ」って思いました。2007年で帰らなければならなかったので、いったん日本に帰ってから、またブラジルに来ました。そのときは半年の旅行ビザだったので、ずっと住むためには学生ビザがいいのではないかと思っていました。
「運がいい」の連続!ブラジルの大学生活
その時に、運がいい話ですけど、以前私が教えていた学生が、自分が通っている予備校に遊びに来ないかと誘ってくれました。そこで行ったら、その予備校の先生が「授業料を無料にするから、日本語の講義をしないか」と言ってくれて、一度、日本語を教えました。その代わりに予備校に毎日通うことができました。また、学生ビザが欲しいし、ブラジルの大学は面白そうと思っていたのですが、その学生が手伝ってくれたおかげで受験することができました。受験科目の数学は100点満点を取れ、2009年にブラジル‐アチバイアFAAT大学に合格することができました。
それから3年間日本語教師として働きながらブラジルの大学の夜間コースで勉強しました。その大学に通った時、毎日面白いことがいっぱいありました。日本の大学も大好きでしたけど、やはりブラジルの大学に通った時が自分らしくいられました。ブラジルは多文化で、大学にもいろんな人がいて、「違う」ことが前提ですから、自分が知らないことがあれば知らないと言います。あるお店の店長に「このチョコレートおいしいですか」と質問しても「食べたことがないから知らない」と言いますよ。
言語学部と教育学部で迷いましたが教育学部に行きました。教育学部の方が教師になれますし、教育学部のみんなは先生を目指す人々だったので優しかったんです。それも運がいいところでした。授業で先生が話すことはだいたいわかるけど、わからない時は周りの友達が私にいろいろ教えてくれました。最初はポルトガル語が全然できなかったので、法律の授業は困りました。ブラジル人の学生にとっても法律は難しいし、その授業の試験も難しかったです。しかし、友だちが手伝ってくれて、先生は厳しい人だったけど、私が頑張っていることはわかっているから、みんなのおかげで1年生は無事通過しました。2年になった時にはだんだんポルトガル語に慣れて自力で勉強ができました。私の人生にとってはすごくいい経験で「あ、こうやって人と人が触れ合って、出会いによって人生が決められることもあるんだ」と思いました。試験に落ちたら日本に帰らなければいけないし、人生が変ってしまう大事なところで大学の友達や先生たちが助けてくれてよかったなと思います。本当にそういう出会いがいっぱいありました。
教えるより一緒に学ぶこと!
私はブラジルに来てずっと、アチバイヤの街に住んでいました。そこは日系人団体がとても強い市です。日本語学校があり、盆踊りも市のお祭りになって、アチバイヤのことを日系人が支えています。それに比べて、2013年に引っ越してきたマイリポラン市の街は日本人会の活動がほとんどないため、まず日本の文化を一緒に体験しながら日本語を学ぼうと日本人会の人と相談しました。ここの人たちも「あ!いいね」って言ってくれて、それが日本語学校の始まりでした。運動会を行なったり、手巻き寿司やうどんを作ったりする感じです。とにかく、触れ合うことと地域の活性化を目的として、地元の人と日本語学校の人はみんなで日本の文化を通じて楽しく集まっています。
記憶に残った日本語学校のイベント
ブラジルで運動会は人気があります。普通のブラジルの小学校は日本みたいに運動会をしないですね。なので、日本語学校が運動会を開催したら、みんなが「なんだこれ、楽しい!」っていう感じでした。「どういう競技がしたい?」と生徒たちに聞きましたが、生徒たちの年齢層が幅広いのですごく喧嘩しました。スプーンに卵を乗せて運ぶレースをして、「生卵でやるか、茹で卵でやるか」という汚れる派と汚れるのが嫌派で喧嘩していました(笑)。
後はおじいちゃんやおばあちゃんは日本人だけど、孫は日本語を喋れないことがあります。日本語学校で行った「うどん作り会」で、うどんを作ることを通じて孫が日本語を使っていくと、おばあちゃんと触れ合いが生まれました。家では恥ずかしくてできないことも、第三者がいるから孫は「これはどうしたらいいですか」とちゃんとおばあちゃんに聞けて、触れ合いが生まれる場所になりました。
カリキュラムも学習者たちが参加して決める
学習者にやりたいことを聞いてカリキュラムを決めています。コロナが明けたら、またゼロからみんなで集まって日本語学校を掃除するところから始めます。そんなに人数もいないので、やりたいことを二人のペアで大きい紙に書いて、私たちがこういうことをしたいと発表して、投票する感じです。ラーメンかうどんを作りたいとか。やはり学習者に「何をしたい? 何をしたかった?」とそういうのをすごく聞きたい。
文化は教えるより一緒に楽しむこと
日本の文化を伝えたい時はまず、日本の文化を伝えたい対象の人をよく知ることだと思います。例えばブラジルの子ども達なら、「世界はそんなに広いんだね」、「こんなにブラジルと違うんだね」と、「それは常識だよ」と言わずに後ろに隠しといて、子どもたちが「わー、そういうこともあるんだ」と、このように伝えればいいと思います。折り紙を教える時も、日系ブラジル人に鶴を教えることは簡単ですけど、そうではないブラジル人にとっては鶴を作るのが難しすぎてできないかもしれません。といっても、自分が「教えている」とは思ってないですね。一緒に遊んだり、一緒に楽しんだり、楽しめることから始める。私は単に「一緒に楽しむ人」です。一応、教師ですが教え込むことが嫌いです。
子どものころがあったからこそ、このような教師になった
小さい時は、喋らなくてもいいと思ったんですよ。母はお喋りで、私が喋りたいことを喋ってくれるから。でも2年生の時の担任の先生とすごく気が合って、ベラベラ喋るようになりました。小学6年生の時は政治家になりたかったです。でも、「政治家無理でしょう」と思って、次は「市長の嫁になりたい!市長になるのは大変だけど、嫁だと意見を聞いてくれる、政治ができる」って中学校の時はそう思いました。今の私はすごい人間味溢れていますが、中学生の時は冷めていたと友達のお母さんに言われたことがあります。「みえちゃんね、昔はお金持ちになりたいって言ってちょっと怖かったよ」って言われました。高校では勉強がつまらないなと思って、夜遊びをしたりしていました。不良まではいかないけど(笑)。だから自分の「真面目だった」とか、「明るかった」とか、「暗かった」とか、こういういろんな自分がいるので、自分の学習者がどういう人であっても、その人を決めない方がいいと思っています。学習者のみんなは、誰にも分からない面もあると思います。
今はね、忙しい方がいい気がする
最近、忙しいです、すごく。本当は修士課程をやりたかったんですけど、ポルトガル語が弱すぎて試験に落ちたので、今は、聴講生としてサンパウロ大学の講義を受けています。次にポルトガル語の試験と研究計画書が通ったら、修士課程で勉強します。その勉強をしながら、クルゼイロドスール通信大学で文学部の日本語ポルトガル語コースで教える仕事もしています。勉強をしたり、教材を作ったり、色んなことをしていて忙しいです。後、日本語教育調査をしていて、ブラジル中の日本語教育がどんな感じになっているのを調査しています。新型コロナウィルスの時期だから家にずっといるけど、すごく忙しいです。しかし、家にずっといると色々考えてしまうし、逆にこの状況で忙しい方がいいかもしれませんね。今は、忙しい方がいい気がします。しかし、休みもちょっと欲しいです。
運がいいと言えば、運がよくなる
「運がいい」と言ったら、運が良くなると思います。私がここまできたのが運だと思います。大学でいい友達や先生に出会い、いつも助けてくれる人がいます。大学を終わってから、友人に「大学院いけば?」と言われて、そのまま勉強を続けています。あんまり考えずに、そのまま進みました。今は通信大学の先生ですが、実は大学の教員には修士号が必要ですが、周りに日本人のネイティブが少ないので、お世話になっている先生に声を掛けてもらいました。本当にみんなが声を掛けてくれたので今のところにたどり着きした。結婚も同じ感じで、全く結婚願望がなかったんですが、友達に気軽に「誰か紹介してください」と言ったら、紹介してくれた人が今の宝物。今思うと、本当に運命の人に出会ったなと思います。夫に出会うためにブラジルに来たと思います。「運がいい」と口に出したら叶うと思います。
(インタビュー:2021年6月)