口で筆を掴む 

武蔵野美術大学

口で筆を掴む 

PEOPLEこの人に取材しました!

古小路浩典さん

画家

中学3年生のとき体操クラブ活動中の事故で頸椎を損傷し、手術·リハビリ後も手足の機能は回復しませんでした。入院期間中に『口と足で描く芸術家協会』(注)を知ってから、自分も口に筆を咥えて絵を描き、個展を開催するようになりました。そこで、古小路さんが絵を描いていく上でどのような心の変化があったのかについてインタビューをしました。

注釈:口と足で描く芸術家協会は事故や病気で手を失った画家たちにより、自立と助け合いを目指して1956年にヨーロッパで設立されました。日本でも1961年から50年以上にわたり続いていて、2019年現在、日本では22名の画家が口や足で描いています。

スポーツの道から絵の道へ

僕は怪我をするまでとにかく運動が好きで、あまりじっとして絵を描くような子どもではなかったんです。でも、小さい頃はテレビのヒーローものを真似て漫画を描いたり、余白にいたずら描きをしたりもしましたね。そのせいか怪我をして何もできることがなくなった時に、何か描いてみたいという気持ちが湧いてきたんです。手が使えないから、それならということで口に鉛筆やマジックを咥えて描くことにしました。当時は病院に入院していたので、理学療法士の先生たちとお話しして首や肩の筋力を取り戻すために文字を書いていたんです。でも、すぐ飽きちゃうということもあって、リハビリの一環でイラストの真似事みたいな絵を描くようになっていきました。最初は線や丸しか描けず、ほとんど絵にならなかったけれど、何ヶ月もかかって、3つの6号くらいのキャンバスに静物画を描いた記憶があります。退院してどうしたらいいかわからなかった時も「同じ境遇にいる人で、寝たままでもこんな絵を描いている人がいるんだ」と絵を続け、その後武蔵野美術大学を出た先生が毎回自宅に来て指導してくれることになりました。

絵に対する心の移動

古小路さんの作業風景

絵を描くことをきっかけに、普段はあまり手に取らない本も読み始めました。それから、絵の先生が昔はミュージシャンになりたかったそうで、その時流行っていた音楽だとか、いわゆるロックだとか、色々な音楽を教えてくれました。その後自分で調べたり、好みのものを集めたりして絵と同時に音楽も好きになったんです。先生に教えてもらう時間は、そういう新しい物との出会いばかりでした。
絵は先生がくるから進めなきゃと思って描くけれど、なかなか難しかったですね。その頃はまだ17、8歳だったから表現への意識も低かったんです。でも、今自分がかたちにできるとしたら絵ぐらいしかないのかなって思いながら、子どもが習い事をするような気持ちでやっていましたね。投げ出して絵を描かなくなったり、先生と話して慰めてもらったりしながら、絵を続けていくうちに自分にとって描くことがどういうことか考えるようになりました。まだまだ勉強中のつもりで描いています。絵には終わりがないので、気持ちの変化は当然ありますね、今ではもう、絵が描けなくなるのは怖いことだと思いますし、続けてよかったとも思っています。

スポーツの経験は今でも

古小路さんが描いた人物画

僕はね、難しいですが動きのある人物画に惹かれるんです。先生にどうしてか尋ねてみたら、「古小路くんはスポーツがいっぱいある中で器械体操を好んでやっていたんでしょう。なんでああいうスポーツをやっていたのか考えてみたら?」とおっしゃいました。器械体操には技の美しさを評価する点があって、スケートみたいに体を使って表現をするんです。子どもの頃の僕がどう思っていたのかはもうわからないですが、今思うと綺麗な姿勢だとか、躍動感のある演技を美しいと感じていたんだと思います。例えば人物画だったら、少し体を捩らせたときの肩の流れみたいなものは、自分の経験の中にあるんですよね。

困難と共に身に付ける技術

古小路さんが使用しているアトリエ

絵を教えてくれた先生も、僕のような口に筆を咥えて絵を描く生徒に教えたことはなかったんですよ。どう指導していいかわからなかったって、後になって教えてもらったんです。だからせめて絵を楽しんで興味を持ってくれたら、と思って音楽や映画についての話をしてくれたのかもしれません。
絵の描き方は、本当に描きながら学びました。例えば、どういうふうにキャンバスを固定するか、筆をしっかり口で噛んで固定するにはどうしたらいいかとかね。絵を描くとき、僕は口の右の奥まで筆を噛んで、糸切り歯でコントロールしています。そういう噛むところも皆さんそれぞれで違うんですよ。歯にシリコンを挟んで筆を噛んで固定している人もいます。それから例えば、僕は右と左で機能が違うせいで水平線が右下がりになったり右上がりになったりしますから、最初からイーゼルを傾ける工夫もしています。僕が座っている車椅子も年々ハイテクになって長い時間座っていられるようになったり、協会に所属している人から聞いてその人のやり方を取り入れたりして、自分にあった形で描けるようになると、最初よりも長く描き続けられるようになりました。あとは、影のグラデーションや色の性質を先生に教えてもらったり、絵の本を読んだり、絵に関係するテレビ番組があれば録画して何度も見返したりして技術を身につけましたね。僕たちは不自由な体でそれぞれ制約を持っていますから、手や足で描いている皆さんも経験の積み重ねで自分に1番あっているものを見つけ出して、それぞれちょっとずつ違う方法でやってきているんだと思います。

風景画に目を凝らす

古小路さんが旅行先の風景を描いた作品

この絵は実在の風景を描いたものです。昔のヘルパーさんから温泉地に一緒に行きませんかって誘われて、最初は紅葉の資料を撮るつもりで行ったんです。その時は紅葉は始まりたてでそこまで色づいてはいなかったんですが、吊り橋や渓谷のあるいい風景の場所でした。しかも東京からでも行ける距離だったのでその後もう1度行って見たら、今度は紅葉が1番盛んな時期だったんですね。実際に訪ねてみると映像や写真とは全然違ってインパクトがあって、動き回ってあっちからもこっちからも写真を撮りました。その中の1番気に入ったものをモチーフにしてこの絵を描いたんです。僕は風景画が苦手でね、風景画を描かれる方ってたくさんいるものですからずっと描くのを逃避していたんです。でも、独特な風景画を描く大先輩から風景画を描いておいた方がいい、描くうちにどんどん楽しくなるよと言われて、もう10年くらいは風景画を年間に何枚かは描くようにしていますね。今住んでいるところの近くで風景写真を撮ることも最近楽しくなってきて、絵を描くといろんなことに繋がっていくのを実感します。

これからの道も、絵とともに

もうおじいさんになっていく年齢ですが、この先もずっと絵は描き続けていると思いますね。とにかく描くことが自分の生きがいになっているから、体力がなくなって描けなくなったときのことはあまり考えたくないです。1週間休んだだけでかなりストレスが溜まってしまいますから。絵のようにやることが自分にあるだけで、やはり支えになりますよね。もし何もしないで寝るなり好きにしたらいいと言われちゃうと、苦しくなっちゃうんじゃないでしょうか。だから、未来でも変わりなく描いていたいです。生涯で描いた中でいい絵が残されてどこかに飾られでもしたら、ああ自分の一生も満更じゃなかったのかな?って思える気がしますね。その頃にはもう死んでしまっているかもしれませんが、絵は残るものだからいいんじゃないかなって思います。そういうものをできるだけ多く残したいです。

経験が表現へ

本を読んだり、情報を頭に入れたりしても、経験しないと何も残らないんです。くさい言い方ですが、ぬくもりを感じることができたり、肌や匂いで感じたりと言う経験が、たくさんできるといいと思います。表現をする人って、そう言うものを技術でかたちに表すんじゃないかな。頭より、体で感じたことがいつか作品に現れるので、頑張って経験を重ねてくださいね。

(インタビュー:2021年6月)

Related Articles関連記事

移動する人々
中東を知る、ニッチに生きる

移動する人々

中東を知る、ニッチに生きる

英国王立国際問題研究所勤務(国際協力銀行より出向)
玉木直季さん

私たちの身の回りにあるエネルギーの多くは中東から来ている。例えば原油の9割以上をサウジアラビアやUAEをはじめとする中東諸国に依存している。日本が資源を確保し続けることができるようにするには、相手国の政府や国営企業と交渉を重ね信頼関係を構築…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

移動に魅せられ、見つけた自由

移動する人々

移動に魅せられ、見つけた自由

日本語教師
片山恵さん

北海道出身。過去には、オーストラリア、フィリピン、アメリカ、ブラジルで生活した経験をもつ。現在は国際交流基金ブダペスト日本文化センターに勤務しており、ハンガリーに在住。海外での日本語教育の他に日本語教育者育成にも携わっている。 また、海…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

フィリピンと日本の架け橋になる

移動する人々

フィリピンと日本の架け橋になる

東京外国語大学 世界言語社会教育センター 特任講師
Palma Gil Florinda(パルマ ヒル フロリンダ)さん

現在東京外国語大学でフィリピン語を教えている。1997年から2002年までフィリピン大学言語学学科で学ぶ。その後、日本語教師として活動。2017年からは来日し、日本で暮らしながらフィリピン教育に専攻を変えた。日本とフィリピンとの架け橋として…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

マイノリティで芽生えるもの

移動する人々

マイノリティで芽生えるもの

静岡文化芸術大学3年
アバス・マリさん

アバス・マリさんは、12歳のとき、言葉や文化も知らない状態でフィリピンから来日した。日本人の父と、フィリピン人の母をもつ。現在タガログ語とビサヤ語と英語と日本語ができる。 中学一年生の9月に日本の学校へ編入した彼女は、12歳から編入するま…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

一番チャレンジできる場所へ〜社会課題をアートで突破

移動する人々

一番チャレンジできる場所へ〜社会課題をアートで突破

NPO法人アーツセンターあきた 事務局長
三富章恵(みとみ ゆきえ)さん

NPO法人アーツセンターあきた事務局長としてアートと地域を結ぶ活動をされている三富章恵さん、このアーツセンターあきたに来るまでにフィリピンの国際交流基金などで活躍されていました。なぜ海外に行くことになったのか、そこからなぜ秋田に移動なさった…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

仕事は人と人のつながり〜中国で電子辞書を売ったプロフェッショナル

移動する人々

仕事は人と人のつながり〜中国で電子辞書を売ったプロフェッショナル

行政書士吉田国際法務事務所、元カシオ中国支社社長
吉田修作さん

学生時代のアメリカ研修ツアーをきっかけに、国際的な仕事に興味を持った吉田修作さん。そして、大手電子製品会社カシオに就職。その後努力が功を成し、カシオの中国支社社長にまで就任。そしてカシオ製品で有名な電子辞書の企画・販売に携わるなど優れた功績…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

幸せの循環を支えるために

移動する人々

幸せの循環を支えるために

文化庁国語課 日本語教育調査官
松井孝浩さん

地域の日本語教室でのボランティア経験をきっかけに日本語教師としてタイやフィリピンに赴任。横浜市の多文化共生に関する施設での勤務を経て、現在は、文化庁国語課に勤務。海外を訪れて感じた「言語」という壁に対して、松井さんが行った活動やその活動のお…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

自分が自分のベストフレンドであること

移動する人々

自分が自分のベストフレンドであること

社会起業家・講演家・エッセイスト・motomoto sri soul 代表
髙橋 素子さん

偶然が重なり、自分の心の赴くままにスリランカへ二週間の一人旅。その後、直感だけを信じ電撃結婚。そしてスリランカへ移住。2019年から、現地で個人旅行やアーユルヴェーダ※の手配、日本人向けのライフコンサルティング、自己肯定感をUPする子どもオ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

Be Myself―日本語教師からカフェバリスタへ!

移動する人々

Be Myself―日本語教師からカフェバリスタへ!

Japan Australia Life Company最高経営責任者/ ZeeCaf. Nosh Co.オーナーバリスタ/日本語教師/トラウマヒーラー
尾島ヴァンダメイ幸香さん

オーストラリアへ渡りJapan Australia Life Company(JALC)の主任として日本語講座、日本語教師養成講座を開講。多くの生徒との関わりの中で、トラウマヒーラーとしても活躍する。そして2017年、シェフである夫リックさ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学

成長して自由になる

移動する人々

成長して自由になる

異文化ナビゲーター
玉利ドーラさん

玉利ドーラさんは、クロアチア人の父と日本人の母をもつ。クロアチアで生まれ、その後、難民としてドイツと日本へ移住、その後、日本を始め、8カ国での生活経験を持ち、現在は、フリーランスで、異文化ナビゲーターとして活動中。私たちは、そんな玉利さんの…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

価値観の共有への第一歩はお互いを知ること

移動する人々

価値観の共有への第一歩はお互いを知ること

日本通訳翻訳センター 代表取締役
綱島延明さん

綱島さんは「中国残留婦人」*3世だ。1990年に父母と共に祖母の郷里、長野県穂高町に移住した。多感な学生時代を経験し、2010年に日本通訳翻訳センターを立ち上げた。「中国残留孤児」支援活動などに参加し日中間のトラブルを身近に感じてきた綱島さ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

時間をデザインする教育者

移動する人々

時間をデザインする教育者

小鹿野町地域おこし協力隊
宇佐川拓郎さん

「遊びを考え、巻き込むことが大好き」。北海道生まれ。東京の大学を目指して上京。小学校と特別支援学校で5年ほど教員をしたとき、学校教育の理想と現実のギャップを目の当たりにする。一度、自分のいる教育環境を離れて見ると共に、自分なりの教育へのアプ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

日本からブラジルへ~「運がいい」の連続!

移動する人々

日本からブラジルへ~「運がいい」の連続!

横溝みえさん

ブラジルのサンパウロ州の隣にあるマイリポラン市に滞在しています。2005年に初めてボランティアで JICA日系社会青年ボランティアの日本語教師としてブラジルに移動し、2年間活動しました。その後、2007年に日本に帰り、また2008年、ブラジ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

多様性で撮る、多様性を撮る

移動する人々

多様性で撮る、多様性を撮る

映画監督、映像ディレクター
小川 和也さん

東京ビジュアルアーツ映画学科卒業後、アメリカのSchool of Visual Artsの監督コースに編入。5年間をアメリカで過ごした後、イタリア・トスカーナ地方のスベレートに移住。日本とイタリアがプロダクション、撮影地はパレスチナとイスラ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学