幸せの循環を支えるために

武蔵野美術大学

幸せの循環を支えるために

PEOPLEこの人に取材しました!

松井孝浩さん

文化庁国語課 日本語教育調査官

地域の日本語教室でのボランティア経験をきっかけに日本語教師としてタイやフィリピンに赴任。横浜市の多文化共生に関する施設での勤務を経て、現在は、文化庁国語課に勤務。海外を訪れて感じた「言語」という壁に対して、松井さんが行った活動やその活動のおける信念についてインタビューをしました。

フィリピンで日本語教師を経験して

 言語との出会い

 大学を卒業し、普通に会社員をやっていましたが会社員をやっている時、地域の日本語教室で日本語ボランティアをしたことをきっかけに、日本語教師になるための学校に行って4年間タイで日本語を教えました。その後、東京に戻ってきて大学院に通って、またタイに2年行きました。その後、国際交流基金の専門家としてフィリピンで3年、日本語教師をしていました。日本に戻ったあと、国際交流基金で2年仕事をして、横浜市の鶴見国際交流ラウンジという所で3年働きました。文化庁国語課は、令和元年7月から勤務していて、4年目です。

 自由さとは何か

 海外にいる時って齢を取らない。特に海外で一人暮らしをしていると、何歳になったら結婚するとか、何歳になったら家を買うという決まりごとのようなことから自由でいられます。26歳の時、そろそろ同期が結婚しはじめる、26歳で日本の男性ならこうしなきゃいけない、普通はこうだ!というのがすごく嫌でしたが、1人でずっと海外をプラプラしていると気持ち的に歳を取らないです。同級生がどうなったという情報が基本的に入ってこず、結婚式にも呼ばれず、いろいろな常識から自由でいられます。外国人というのはある意味不自由です。言葉も通じないし、仲間もいない寂しさもあるし、何をやっても自分の責任で、歩む道を切り開いて行かないといけないという反面、自由でもあります。生きていても、死んでいても自由なのです。

 多言語圏の国で暮らして

 2011年〜2014年にフィリピンで日本語教師をしているときに初めて「飢えている子ども」に出会いました。また、英語を話せる人は同じフィリピン人と言っても、話せない人とは住んでいる国が違う位の違いがあります。きちんとした教育を受ける機会を得ることができなった人は、大都市にも海外にも働きに出られない、というところで言語は移動に関わっています。境界を越えていく1つのハードルとして言語の壁が物凄くある。移動と言語は密接に結び付いているということがストレートにフィリピンはありました。更に、フィリピンでは一般的なタガログ語やビサヤ語以外の少数言語を話すコミュニティに属していれば、生まれながらにさらに大きなハードルにさらされているのが現実。人の温かさとそれぞれが持っているハードルの高さっていうコントラストに大きな衝撃を受けました。

フィリピンで日本語教師をしていた時代

幸せの循環 

日本の社会の中では、様々な”当たり前”があって、それが1つでも欠けていると不幸みたいなことになっちゃうじゃないですか。例えば、仕事があって、自分の家があって、車があって、それなりの歳になったら結婚して、子どもがいて、年収がこれくらいあって当たり前というように。でも、例えば、フィリピンで大変な生活をしていたことがある人たちは、日本では3食のおかずに肉があって、台風になっても飛ばない屋根があるところで寝られる、ってことで幸せを感じられるということも、もしかしたらあるのかもしれません。それに、日本でどうしても困ったら、田舎に帰って果物や野菜、鶏や豚を育てて売ればなんとか生きていけるなんて考えていて、そんなふうに心に余裕を持っている人にも会ったことがあります。そういう人たちは、人生において生存戦略を多く持つという意味で、社会的な弱者というより、むしろ強いと言えると思います。弱者だから助けるというよりも、困っている時に助け合い、気にかけあえる関係であれば、それでいいっていうか。それが日本人だから外国人だからっていうのはないと思います。日本語教育を通して、お互いがそれぞれの幸せを感じられるような循環を作っていくことができれば、それでいいのかなと思っています。

通じる良さ、通じない良さ 

通じない良さって絶対僕はあると思っています。一つの言語で生活していると、短い一言で察しあって理解できてるって思いがちですけど、本当に理解し合えているかは実はわからないじゃないですか。理解していると思い込んでいるだけ、ってことは往々にしてありうる。要するに、通じるだろうっていう前提が強すぎるから、通じない時に傷つくんです。大体半分しか通じていないだろうなっていう世界にはもちろん大変なことはあるんだけど、結構、精神衛生上はいいっていうかね。向こうの言っていることは半分ぐらいしかわかっていないし、自分の言っていることも多分半分ぐらいしかわかってもらえていないだろうから、必要な時にはちゃんと話せばいいかな、みたいな。そして、ちゃんと話してわかり合えた時の喜びは、わかりあえて当然っていう環境にいるときよりも、大きいんじゃないかなと思います。基本的にコミュニケーションが誤解に満ち溢れているっていう状況、僕は嫌いじゃないです。

鶴見国際交流ラウンジ館長として

 鶴見での経験 

神奈川県横浜市鶴見区は外国からの人が多い地域で、いろんなところから来た人が住んでいます。ですが、そのことは鶴見国際交流ラウンジの館長の仕事をするまで知らなかったんですよね。そもそも横浜市の鶴見区に外国人が多いっていうことすら知らなかったし、中には生活において困難を抱えている人がいることも知らなかったです。鶴見って多文化共生のいろいろな取り組みが盛んに行われていて、進んでいると言われていますけど、それでも見えないことになっている部分はあると思います。日本人同士でも同じことですが、みんな普段は別々に暮らしていますから、やっぱり実際は交流もそれほど多くないのではないかと思います。そのお互いの生活の見えにくさに気づいたのは、鶴見での経験でしたね。

鶴見川

人生をかけて夢をつなぐ 

私が知っている情報では、鶴見区はフィリピン、ブラジル、ベトナム、ネパールからの人が特に多い地域なんですが、移民っていうのは自分の夢を全て子どもに託すんですね。特に移民第一世代の親は子どもが社会的に上昇していくための踏み台になるっていう覚悟で来ているのではないでしょうか。それは、かつて日本からブラジルに移民した人々もそうです。第一世代はポルトガル語がほとんどできなかったので、農業をする人が多かったと聞いています。土地を開拓して、農作物を育てたりして必死に働きました。それで、子どもたちには現地の教育を受けさせることによって、第二世代は会社員や学校の先生になっていきます。そうすると第二世代っていうのは、その子どもに対してはある程度教育にも投資できて、第三世代ぐらいになると医者とか弁護士とかになる人が出始めます。そうして移民は世代を重ねることによって社会上昇を図っていくんです。親から子、子から孫へ夢を繋いでいく。その中で社会との関わりも増えていく。こういう長いスパンの中での移民第一世代の人たちっていうポジションは、日本語教育の機会をどのように提供していくのかってことを考える上でも、やっぱり理解する必要があると思いますね。つまり、ある程度の年齢になって、週に数時間日本語を勉強するよりも、その数時間の間だけでも、必死に働いて子どもたちを塾に通わせるお金を得たいって思う人がいるんだろうなってことについての想像力を持つということです。そういう人たちに対して、日本にいるのに日本語を勉強する気がない、やる気がないなんて、そんなに簡単には言えないということです。

漫画でフィリピンを知ってほしい 

鶴見で働いている時、『ホセ・リサール』*という漫画を出版しました。自分の国が誇れるようないい国なんだということをフィリピンルーツの子には知ってもらいたいという気持ちがあって、あの漫画のシナリオを書きました。

これは日本語、英語、タガログ語の3言語でできているのですが、日本の人にフィリピンの独立戦争の歴史を知ってもらって、敬意を持ってほしいし、単純にかっこいいなと思ってほしいっていうのはあります。日本にいるフィリピンの子にも自分の国には素晴らしい歴史があるんだっていうことを知ってほしいです。自分が歴史が好きだったのもあるし、フィリピンの歴史自体がすごく面白いので、これを何か形にできたらいいなっていうのはありました。

また、日本で生まれたフィリピンルーツの子どもたちっていうのは、自分の国の歴史や文化を学ぶ機会がほとんどないわけですね。人によりますが、フィリピンルーツの子どもというのは、お父さんが日本人でお母さんがフィリピン人っていうお家が多いんです。すると、中にはお母さんが運動会や授業参観に来ることを嫌がる子どももいます。親がフィリピンルーツだといじめられるということは数年前までは聞きました。自分の子どもに、フィリピン人だから学校に来るな、と言われるのは、母親にとっては自分の子どもに差別されるということです。でもお母さん自身も色々な差別を受けたことがあるから、我慢して授業参観や運動会を見に行かない。自分の子どもがルーツを隠したいという気持ちに寄り添うという選択をするお母さんも中にはいます。ただ、子どもが中学生・高校生になるとそういったことは少なくなります。自分のルーツだから、ということに気がつく年齢があるのです。でもやっぱり小学校の低学年くらいだと、お母さんが日本人じゃないことが嫌っていうのをストレートに言ってしまう子どももいて、それは残念だなあと思ったし、ああいう漫画ができればフィリピンにはすごい人がいっぱいいるのだ、と自分のルーツを肯定的に捉えられるんじゃないかなと思いました。漫画の主人公であるホセ・リサールはすごい人で、日本で言うと坂本龍馬と夏目漱石と・・・あの時代の各分野の偉人を足したような才能溢れる人なんです。

*『ホセ・リサール』(原作:松井孝浩、漫画:今野涼、出版社:TORICO、2018年)

松井さんがシナリオを書いた漫画『ホセ・リサール』

信念

 理想的な人間関係のあり方 

人と人との関わり方って、多分それぞれが意識的にも無意識的にも選んでいるのだと思うんですよね。自分が誰とどこまで関われるのかっていうのは、人間であれば絶対そこは選択しているはずです。そこで問題になるのは、自分が関わりたいと思っていても関わりを拒否されるような状況とか、自分が関わりたいと思っていても言葉の壁で関われないっていう状況です。特に言葉の問題に関しては、日本語教育が何とかしていくべきだと思います。日本語ができないが故に、こういうところに関われないっていう意識を当事者が持つのであれば、そこに対する何かの働きかけはできた方がいいなって思います。日本人と外国人が関わるにはどうしたらいいかということはあまり考えていなくて、日本語を通して人と人がどう関わっていくかというふうに考えています。

 

日本語教育が変える日本の未来 

日本語教育をやっているので、日本語を学びたいと思っている人が、きちんと学べる環境を整えたいです。

移民を受け入れているヨーロッパの国々では、国の責任でもって、移民に対する言語教育を行っているわけです。それに対して、日本では特に地域の日本語教室などでは、まだまだボランティアさん頼みの状況があります。なぜ日本が外国人を受け入れているかというと、日本は少子高齢化で、いろんな人に来てもらって、社会の担い手になってもらわないと、日本の社会が維持できないという状況になっているからです。

政府が予算を出して、日本語教育を行い、日本に来た人たちがやりがいを持って働けるようになることで、みんなが社会の中で肯定感を持ち、また経済的に自立することを通して、あくまでも結果としてですが、社会に生み出される利益も大きくなります。そこで生み出された利益の一部が、これから日本にくる人たちのための日本語教育機会の提供や暮らしに関わる支援などに回っていったらいいなと思います。日本語教育はこのような良い循環を作っていくための投資になると考えています。今、日本にいる外国人の方々は、3、4年で帰るわけではなく、生涯日本で暮らそうと考えている人が多いのではないでしょうか。そこで大切になってくるのは、日本語教育を通して幸せの循環を作っていくことなのではないかなと考えています。

(インタビュー:2022年6月)

Related Articles関連記事

移動する人々
中東を知る、ニッチに生きる

移動する人々

中東を知る、ニッチに生きる

英国王立国際問題研究所勤務(国際協力銀行より出向)
玉木直季さん

私たちの身の回りにあるエネルギーの多くは中東から来ている。例えば原油の9割以上をサウジアラビアやUAEをはじめとする中東諸国に依存している。日本が資源を確保し続けることができるようにするには、相手国の政府や国営企業と交渉を重ね信頼関係を構築…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

移動に魅せられ、見つけた自由

移動する人々

移動に魅せられ、見つけた自由

日本語教師
片山恵さん

北海道出身。過去には、オーストラリア、フィリピン、アメリカ、ブラジルで生活した経験をもつ。現在は国際交流基金ブダペスト日本文化センターに勤務しており、ハンガリーに在住。海外での日本語教育の他に日本語教育者育成にも携わっている。 また、海…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

フィリピンと日本の架け橋になる

移動する人々

フィリピンと日本の架け橋になる

東京外国語大学 世界言語社会教育センター 特任講師
Palma Gil Florinda(パルマ ヒル フロリンダ)さん

現在東京外国語大学でフィリピン語を教えている。1997年から2002年までフィリピン大学言語学学科で学ぶ。その後、日本語教師として活動。2017年からは来日し、日本で暮らしながらフィリピン教育に専攻を変えた。日本とフィリピンとの架け橋として…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

マイノリティで芽生えるもの

移動する人々

マイノリティで芽生えるもの

静岡文化芸術大学3年
アバス・マリさん

アバス・マリさんは、12歳のとき、言葉や文化も知らない状態でフィリピンから来日した。日本人の父と、フィリピン人の母をもつ。現在タガログ語とビサヤ語と英語と日本語ができる。 中学一年生の9月に日本の学校へ編入した彼女は、12歳から編入するま…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

一番チャレンジできる場所へ〜社会課題をアートで突破

移動する人々

一番チャレンジできる場所へ〜社会課題をアートで突破

NPO法人アーツセンターあきた 事務局長
三富章恵(みとみ ゆきえ)さん

NPO法人アーツセンターあきた事務局長としてアートと地域を結ぶ活動をされている三富章恵さん、このアーツセンターあきたに来るまでにフィリピンの国際交流基金などで活躍されていました。なぜ海外に行くことになったのか、そこからなぜ秋田に移動なさった…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

仕事は人と人のつながり〜中国で電子辞書を売ったプロフェッショナル

移動する人々

仕事は人と人のつながり〜中国で電子辞書を売ったプロフェッショナル

行政書士吉田国際法務事務所、元カシオ中国支社社長
吉田修作さん

学生時代のアメリカ研修ツアーをきっかけに、国際的な仕事に興味を持った吉田修作さん。そして、大手電子製品会社カシオに就職。その後努力が功を成し、カシオの中国支社社長にまで就任。そしてカシオ製品で有名な電子辞書の企画・販売に携わるなど優れた功績…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

自分が自分のベストフレンドであること

移動する人々

自分が自分のベストフレンドであること

社会起業家・講演家・エッセイスト・motomoto sri soul 代表
髙橋 素子さん

偶然が重なり、自分の心の赴くままにスリランカへ二週間の一人旅。その後、直感だけを信じ電撃結婚。そしてスリランカへ移住。2019年から、現地で個人旅行やアーユルヴェーダ※の手配、日本人向けのライフコンサルティング、自己肯定感をUPする子どもオ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

Be Myself―日本語教師からカフェバリスタへ!

移動する人々

Be Myself―日本語教師からカフェバリスタへ!

Japan Australia Life Company最高経営責任者/ ZeeCaf. Nosh Co.オーナーバリスタ/日本語教師/トラウマヒーラー
尾島ヴァンダメイ幸香さん

オーストラリアへ渡りJapan Australia Life Company(JALC)の主任として日本語講座、日本語教師養成講座を開講。多くの生徒との関わりの中で、トラウマヒーラーとしても活躍する。そして2017年、シェフである夫リックさ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学

成長して自由になる

移動する人々

成長して自由になる

異文化ナビゲーター
玉利ドーラさん

玉利ドーラさんは、クロアチア人の父と日本人の母をもつ。クロアチアで生まれ、その後、難民としてドイツと日本へ移住、その後、日本を始め、8カ国での生活経験を持ち、現在は、フリーランスで、異文化ナビゲーターとして活動中。私たちは、そんな玉利さんの…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

口で筆を掴む 

移動する人々

口で筆を掴む 

画家
古小路浩典さん

中学3年生のとき体操クラブ活動中の事故で頸椎を損傷し、手術·リハビリ後も手足の機能は回復しませんでした。入院期間中に『口と足で描く芸術家協会』(注)を知ってから、自分も口に筆を咥えて絵を描き、個展を開催するようになりました。そこで、古小路さ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学

価値観の共有への第一歩はお互いを知ること

移動する人々

価値観の共有への第一歩はお互いを知ること

日本通訳翻訳センター 代表取締役
綱島延明さん

綱島さんは「中国残留婦人」*3世だ。1990年に父母と共に祖母の郷里、長野県穂高町に移住した。多感な学生時代を経験し、2010年に日本通訳翻訳センターを立ち上げた。「中国残留孤児」支援活動などに参加し日中間のトラブルを身近に感じてきた綱島さ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

時間をデザインする教育者

移動する人々

時間をデザインする教育者

小鹿野町地域おこし協力隊
宇佐川拓郎さん

「遊びを考え、巻き込むことが大好き」。北海道生まれ。東京の大学を目指して上京。小学校と特別支援学校で5年ほど教員をしたとき、学校教育の理想と現実のギャップを目の当たりにする。一度、自分のいる教育環境を離れて見ると共に、自分なりの教育へのアプ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

日本からブラジルへ~「運がいい」の連続!

移動する人々

日本からブラジルへ~「運がいい」の連続!

横溝みえさん

ブラジルのサンパウロ州の隣にあるマイリポラン市に滞在しています。2005年に初めてボランティアで JICA日系社会青年ボランティアの日本語教師としてブラジルに移動し、2年間活動しました。その後、2007年に日本に帰り、また2008年、ブラジ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

多様性で撮る、多様性を撮る

移動する人々

多様性で撮る、多様性を撮る

映画監督、映像ディレクター
小川 和也さん

東京ビジュアルアーツ映画学科卒業後、アメリカのSchool of Visual Artsの監督コースに編入。5年間をアメリカで過ごした後、イタリア・トスカーナ地方のスベレートに移住。日本とイタリアがプロダクション、撮影地はパレスチナとイスラ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学