日本語との出会い
日本文化はフィリピンで人気があったけれど、私が日本語を探求しようとしたきっかけは偶然でした。それは、日本語の単位数が多かったからです。
大学の専攻が言語学で、元々はドイツ語かスペイン語を勉強したかったのですが、数単位しか勉強できなくてそれだと話せるようにならないと思ったから、日本語を選びました。もしヨーロッパ言語の単位がいっぱいあったらそれを取っていましたね。それから日本語をとったら留学できるという噂を先輩たちから聞いて、無料で外国に行きたくて。2000年10月に留学のために初めて日本に来日し、それから日本のことが好きになりました。路上にゴミが落ちていなくてトイレも綺麗なことにびっくりしました。そして人々もみんなとても親切でした。このような理由で日本が好きになり、それからは日本語ばかり……。けれど冬の乾燥は苦手です(笑)
2002年に大学を卒業しましたが、日本語を教えながら、2003年から1年半くらい日本人のひきこもりを受け入れるプロジェクトのコーディネーターとして働きました。ニュースタートというNPOが日本人のひきこもりと共に海外に行き、コミュニケーションを学んで生きていくという活動をしていました。そのNPOのマニラ事務所で働いていました。ここで初めてひきこもりという言葉に接しました。フィリピンでもひきこもりという存在はいるかもしれませんが、日本と比べて少ないので社会問題になる程度の問題ではないです。大学生の時は日本に留学して、様々な明るくて元気な生活の素敵な日本人に出会えましたが、日本人のひきこもりの人たちと出会えた時は自分が考えていた「幸せ、何にも困らない人たち」という日本のイメージと非常に異なっていて「問題を抱えている日本人もいるんだ」とびっくりしました。その時の仕事はひきこもりの人たちのためにアクティビティを作ることでした。例えば、英語やフィリピン語を教えたり、スポーツをしたり、ボランティアをしてもらったりしました。そして、子供向けの小さい日本語の学校を作って、私とひきこもりの人たちとグループになってフィリピン人と日本人のハーフの子供に授業を行ったりしていました。
その活動後、ひきこもりの人たちが日本に戻ってから仕事ができるようになったという知らせを受けました。ある人は日本語の先生になるという目標ができたらしくて、それを聞いて誰かをサポートしたいという気持ちができました。
教師研修への参加
フィリピンの国際交流基金の先生に勧められて、2006年に半年間、浦和の国際交流基金で行われる日本語教師研修に参加しました。フィリピンでは日本語の授業はあっても日本語の教師のための取り組みがなくて、教師自身の学習経験から生徒に日本語を教えることが多かったんです。その研修では先生としてレッスンプランを立てたり、教授法を勉強したりしました。プログラムに参加することで初めて多様な教え方や外国語を教えるスキルを身につけることができました。
その中でフィリピンの日本語教師の日本語能力が他の国の先生と比べて弱いことに気づきました。他の国は日本語教育が進んでいて、フィリピンのために頑張らなきゃ!と思うきっかけにもなりました。現在でもフィリピンの大学に日本語の先生を育成する授業はないのです。そのプログラムが終わってからは大学に戻って、そこで学んだことを活かして日本語を教えました。
ドラマプロジェクト
その後、2008年から日本の政策研究大学院の大学院生になりました。そのプログラムのユニークなところですが、政策研究大学院大学、国際交流基金日本語国際センター、国立国語研究所の三つのところで勉強することができました。一年間大学院生活でこの三つの場所を行ったり来たりしながら日本語教育を勉強しました。二年間程度の勉強を一年で終わらせるプログラムで、出かけることもあまりできなかったです。そこでの論文のテーマは私がフィリピン大学で行ったドラマプロジェクトを取り入れた授業の改善でした。大学生たちに授業の最初から最後まで学んだ言葉で台本を作ってもらい、一つのドラマのビデオとして完成させるプロジェクトを行いました。
そのプロジェクトで一番印象深かったは、フィリピンの学生たちの創造性です。フィリピンの人々は踊ったり、歌うことが好きですので演技もとても上手でした。ラブストーリーが多かったのですが、ミステリやアクション系のドラマもありました。日本人の留学生とフィリピン人の学生が恋をし、結局別れてしまうというストーリーが印象深かったです。ドラマプロジェクトを通して学生たちがどのような日本語を勉強したか、日本の文化から何を学んだか分かりました。
しかし、いろいろ課題もありました。やっぱりグループ課題ですのでみんなで協力し合わないといけなかったのに、一人で作業してしまったグループもありました。学生たちに授業で学んだ文法を使って欲しかったのですが、複雑な文法を使いたがっていました。そして当時翻訳ツールを使う許可も与えましたが、そのようなツールに頼りすぎたグループもあって、翻訳してもらった文章を確認もせずそのまま提出したグループもありました。その時代ではまだGoogleの翻訳があまりしっかりしていなかったので間違いが多かったです。その時面白かったエピソードは、「That’s right(そうです。)」という文章を翻訳すると、「それは右です。」と出てきたことです。そこで経験したグループワークの難しさについては大学院での論文の研究テーマに活かせました。
日本語教師からフィリピン語教師へ
フィリピン大学で日本語教師をしたり、国際交流基金の日本語教師研修を担当したりしていました。当時は、フィリピンの日本語教師が少なかったので呼ばれたらすぐ行きましたが、最近は日本語教師が増えました。そこで、私の役割もひと段落したと感じていました。それで、個人的な事情もあって、2017年に来日することにしたんです。
友達が東京外国語大学のフィリピン語講師にならないかと誘ってくれたとき、自分がフィリピノ語教育について知識が足りないと気づいて、戸惑いましたが、それを勉強するためにフィリピン語を教えようと決心しました。
日本の大学でフィリピン語を教えるようになり、びっくりしたことがあります。それは授業中に生徒があまり発言しないことです。私が大学生の時は先生がその学期で扱う本だとか教科書を全て一番最初に学生に渡して学生はそれを読んでディスカッションを行いました。だれも話さなければ先生はなにもないですねーって去ってしまいます。
でも日本人の学生はシャイで発言させることがすごく難しかったです。誰も答えてくれないので他の先生や先輩に日本人の学生が考えていることをどうわかるかを相談したら、コメントシートを使ってわからなかったことや気づいたことを書いてもらい、授業で取り上げ発言しやすい雰囲気作りを行いました。
長く住んでみていろんなことに気づきましたね。フィリピンは乾季と雨季の二つしかないので日本の季節の変化に適応することが難しいです。日本語教育をしていて「涼しい」と「暖かい」を教えていましたが本当の意味が日本に住んでみてわかりました。乾燥が特に辛い。でも一番大変だったことは、冬がとても寒いことです。寒くてシャワー浴びるのが大変です。お湯があったかくなるまで寒いし。また外へ出たら寒い(笑)。
私と同じく日本で暮らすフィリピン人のために「架け橋」というプロジェクトがあります。何が足りないのか、日本に来てどういうサポートが欲しいかというアンケートをすると、困っているフィリピン人の多くが、日本語の勉強が足りなかった、ということだけでなく日本の文化を理解していないことがわかりました。文化というのは花見とか寿司ということではなく日本で生活する上でやっちゃいけないことやマナーのことです。そのせいでフィリピン人の子供が逮捕されることが増え、そういった方達のために「架け橋KAKEHASHI」という団体が「架け橋」というガイドブックを作りました。日本とフィリピンのコミュニティに少し貢献できるようにそのプロジェクトに参加しました。
日本の人たちに日本語を使ってフィリピンのことを伝える、フィリピンの人たちにフィリピン語を使って日本のことを伝える。そしてフィリピンと日本の架け橋になってつなぐ。そうではないと学生たちがただ文法を覚えるだけで、本当に何のために勉強しないといけないかと思うかもしれないと思いました。日本語を学んだことで活動の幅が広がりました。日本語を学んで日本語を教えることで、日本語だけじゃなくて自分のことも再発見というか、日本語を使って自分のことを知れました。
いっぱい勉強していろんなことを経験したら活動の幅が広がります。教育っていうのは教室の中で受ける授業だけじゃなく、教育者の立場になってみて、国境だけじゃなくて職業の移動をすると考え方も変わっていきますよね。変わっていけたのは自分の力だけの能力じゃなくて、私は本当にラッキーで、恵まれていました。いろんなすごい人に会ったから先輩に出会ったからいろんなことを学びました。私だけだったら何もできませんでした。そういう面、そういう人たちと出会ったから頑張れましたね。フィリピン大学を卒業して日本に来た時も国際交流基金にいた時もひきこもりの人たちとプロジェクトに関わっていた時もすごい人たちに出会ったから、その人たちが私の道標です。いろんなことを乗り越えました。
私にとって日本語は外国語なんですけど、日本語を使って生活しているので私のもう一つのアイデンティティになっています。
今の目標は博士を取得することです。今の仕事も好きなのですが、今の職場での経験を他のフィリピノ語の教師にも経験してもらいたいのです。博士号があれば移動先で仕事がすぐ見つかると思います。私もまたいろんな経験をしたいのでこの先、別のところに移動するかもしれないですね。
(インタビュー:2022年6月)