〈プロフィール〉
1985年東京都生まれ。アートトランスレーター。アート専門の通訳・翻訳者の活動団体「Art Translators Collective」の代表。言語、芸術、人、文化などの様々な領域の間に立ち、クリエイティブなコミュニケーションの可能性を探る。日英の通訳・翻訳を行うほか、コミュニケーションデザインディレクターとして創作現場のコミュニケーション環境を整えたり、東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻では非常勤講師としてアーティストのためのコミュニケーションの授業を担当したりしている。
翻訳でアートを繋ぐ
Q:アートトランスレーターとはどのようなお仕事ですか?
アートトランスレーターは簡単に言うと、アート専門の通訳・翻訳を行うお仕事で、私は日本語と英語の通訳・翻訳をやっています。
通訳・翻訳だけでなく、例えば、異なる文化からきた人々が英語で話す際のコミュニケーションの監修、芸術祭と観客を繋ぐ広報やイベント作りなども含めて、自分の仕事と思ってやっています。もともとそういう職業があったわけではなく、私がアートトランスレーターと勝手に名乗って仕事をしています。通訳者です、と言って仕事をしてもいいのですが、そうすると演劇でいうところの黒衣のような見えない存在や、自動翻訳みたいなイメージを持たれることも多く、新しい仕事だと伝えるためにアートトランスレーターと名乗るようになりました。もともとアートトランスレーターとは何か、が決まっていない分、「これもアートトランスレーターの仕事です」と言ったもの勝ちなんですよ! 従来の通訳・翻訳のイメージだけだと伝わらないような、アートの世界で必要だと思う通訳のあり方や、これまでになかった仕事の仕方を提案しています。ですのでアートトランスレーターの定義は更新中だと思っていただければ(笑)。
Q:アートトランスレーターの仕事の醍醐味はどういうものでしょうか?
一番楽しくてやりがいがあり、かつ一番難しいことなのですが、人の声を代弁するところです。私がうまく代弁できなければ話者の言いたいことが伝わらないという、ものすごく責任の重い仕事です。人の考えや言葉を自分の体に通して一旦その人になってみるような感覚は、とても身体的です。その人の言葉をあたかも自分が考えているかのように、私の声で出力しないといけないんですよね。その人の思考の可能な限り近いところまで行けるというのは他にない体験だなと思います。それがすごく面白い体験で楽しくもあり、覚悟が必要な仕事だと思います。
Q:どんな人がアートトランスレーターに向いていると思いますか?
自分にしかできない仕事をしようというやる気と、自分以外の人の言葉を出力調整せずなるべくニュートラルに表現するという、矛盾した二つの自我のバランスをいい感じに持っている人ですかね。自分が!みたいな人は向いていないのですが、自分のことを全くどうでもいいと思っていても向いてないというか。
私にしかできないベストな通訳をするぞという覚悟や責任感、そしてある程度の自信も必要だと思います。そういう意味で自我や自負みたいなものは必要なのですが、自分の言葉で自己表現するわけではないので、そこには自我は必要なくて。だから自分でありつつ自分でない感じ。私自身の存在がグレー領域で、白黒どっちにもならず、しかし透明でもないというイメージです。
クリエイティブな通訳
Q:自分を通して話者の言葉を伝える時に自分の感情や自分の経験、思考の偏りとかが入ってしまうと思うのですが、それはどのようにクリアしていますか?
クリアはできないんです。それは永遠に続く通訳者の命題みたいなもので。どんなに私が話者の考えを理解して、正確に伝えたいと思っても、私はその人の言葉を私の持っている知識と知能でしか理解できません。知らない言葉は知らないし、理解できないことは理解できない。受け取る段階ですでに私のフィルターがかかっているということですね。それを出力する時にも、通訳するために壇上に上がったらいきなり今まで使ったことのない言葉がスラスラ出てくるみたいな奇跡が起こるわけではないので、普段使っている私の言葉でしか話せないんです。
だからそういう意味では通訳は決してニュートラルなものではなく、偏りや限度があります。そして、それをアーティストや話者の人たちにも理解してもらう必要があると思っています。自動翻訳みたいなイメージだと、正解は一つでその正解が機械的に導かれるような印象を抱きがちですよね。しかし、特にアートの文脈で話しているときは、アーティスト自身もなにかよくわからない、言葉にしきれないものを言葉にしようとしていたりします。アーティストがクリエイティブな話をしているなか、それをどのように別の言葉にするかというところもやり方が何通りもあるので、それもクリエイティブな行為として捉えたいのです。アーティストが、翻訳の答えは一つだと思ってしまっていると、うまくいかない。アートトランスレーションと言っているのは、通訳・翻訳もクリエイティブな作業ですよ、ということを話者が理解してくれないと難しいからです。話者と通訳の二人三脚で行う共同制作みたいな感じです。
自分の感情が入ってしまうジレンマの話に戻ると、どうしても絶対に入るということがまず前提にあります。どう頑張っても私はこの外見とこの声でしか通訳できないので、話者がどんな人でもこの姿で出力される。その限界があるのをまず自覚して、その上でなるべくその人の言いたいニュアンスや、一番言いたいことの本質を伝えられるように、ベストを尽くすしかありません。
気をつけているのは、例えば話者がすごく怒っていて、とても緊張感ある現場でそれを通訳しなければいけないというときに、本来の自分としては、平和に行こうよと思っているわけです(笑)。そう思っていると無意識に、私が怒りや緊張感の度合いを調整してしまうことがあります。他の分野の通訳だったらそういう調整も必要かもしれません。しかし、クリエーションの現場はお互いに怒ったり感情をぶつけ合ったりすることも大事です。必要な喧嘩もあると思います。意見をぶつけないと出てこないものもあるので、私の良心が痛むからと言って、勝手に喧嘩の仲裁のようなことはせずに、なるべく言われた言葉をそのまま通訳するようにしています。
Q:自分が怒っていなくても話者が怒っていたら自分が演技したりするのですか?
演技しようと思うと少し嘘くさくなっちゃうので…なんか嫌じゃないですか、通訳者が隣で同じ手振りとかしていたら、ちょっとうざいでしょ?(笑)なので演技はしませんが、言葉の強さやチョイスを同じような緊張感のあるものにします。
例えば話者が「あなたのこことここが気に入らないです」って言ったとしたら、私が「こことここが少しだけ気になるかもしれないです…」というように和らげて言うのではなくて、もう一方の言語でも冷静に「あなたのこことここが気に入らないです」って言葉通りに言う感じです。
私が勝手に人間関係の整理をしてしまうと、起こるべき衝突も起こらなくなってしまいます。そういうことが求められるときもありますが、そこは本当にケースバイケースです。話者が話して通訳者が交代して、という感じで交互に話していく逐次通訳だと、例えば2時間のミーティングだとしたらその時間の半分は私一人が話しています。そうするとミーティングに参加している人は5人だとしても、1時間は私の声のみを聞くことになります。だから単純にいうと50%のコントロール力を持っている。もしくはもっと持っている。私のテンションや話し方でその場の雰囲気が決まるんですね。雰囲気を上げることもできるし、簡単に下げることもできるし。そこの調整は難しいですね。
人間と通訳
Q:最近翻訳アプリやAIが流行っていると思うのですが、それは通訳の領域に関わってきていますか?人が通訳するより機械が通訳した方がいいところや人が持っている魅力はありますか?
それについては今絶賛考え中なんです。これは個人的な意見なので通訳者を代表する意見では全くないのですが、まず私自身はそういう技術とかAIに対して、全くアンチではないです。技術が進化することは自然なことだと思っているので。そして人間がそこまで素晴らしいとも思っていなくて。このような話になるとよく人間には心があってクリエイションができるから機械には負けないみたいな議論がありますが、それもちょっと怪しいと思っています。心がなくても、機械が人間の創造するものに近いものをすでに作っていますから、人間にしかできない通訳があるとは言い切れないと感じています。通訳の正確さにおいても既に機械に負けている可能性がありますし、それはもう現実として受け止めなければならないです。
ただ、肉体は存在するので、通訳以外できることがあると思います。人間は人間が好きなので、通訳者という肉体が隣にいてくれたら安心するということはあると思います。トークの本番前とか控室で雑談しているときなど、すごく大物のアーティストでもめちゃくちゃ緊張していたりするんですよ。私が緊張を和ませることもあります。通訳は、話者との信頼関係が大切です。話者にこの人なら大丈夫と安心してもらえた方が通訳もうまくいくので、登壇前の控室での時間はすごく大事です。安心してもらったり、信頼してもらったり、そういうコミュニケーションは人間の肉体があるからできることだから。人間にできて、AIにできないことはこれくらいじゃないですかね? AIによる翻訳の質向上に関しては、楽観的ではないけれど、だからと言って悲観もしていないという感じです。
この世界はグラデーション
Q:田村さんは境界についてどのようなイメージをお持ちですか?
グラデーションのようなものをイメージします。
白と黒に分かれるものなんてこの世に一つも存在しないと思います。そう見えるものはあるけれど、でもそれでも100%黒とか100%白はない。常に私はその間にいる感じです。でもどうしたって0対100とか白黒で考えるのが一番楽なんです。カテゴリー分けしたり、名前をつけたり、グループを作ってそこに当てはめると人は安心するんです。だから国という単位もあるし、人種で区別しようとするし。でも本当は全部グラデーションだから、同じ人なんていない、一人一人違うと思った方がいいと思います。
なので境界のイメージも線っぽいものではなくて、面のようなものの方がいいかもしれないですね。いろんな面が重なり合っている。面でもないな、なんなら球みたいな立体で考えたほうがいいかもしれない。3Dの領域があって、そこにAさんの物体とBさんの物体があって、二つは違うけれど、交わったり重なったりするところもある。二つの境界は輪郭で表せるようなはっきりしたものではなくて、もうちょっと曖昧で、物体自体もそれぞれ物質がゆらぎながらまとまって一つに見えているだけ、みたいな。難しいですね(笑)。
例えばこういうフレームがあったとして、こういう線の引き方 (図1) もあるけれど、こういう分け方もある(図2)。
図1は真ん中に線があって、左と右は分かれているねってなるけど、図2は右側に面ができたから真ん中になんとなく線が見えてくるだけ、という。でも二つとも結果は同じなわけですよ。でも私がイメージしたいのは、線を引くことで分断を生む境界ではなく、面が隣り合うことで自然に浮かび上がってくる境界ということなんです。
Q:新型コロナのパンデミックやネットやAIの発展等で、だんだん深い繋がりがなくなってきていると思うのですが、通訳という人と人を繋げる職業をなさっている田村さんは繋がりが持つ力や重要性をどのように考えますか?
やはり図1の考え方だと、それぞれが独立していて、他人と交わらなくても存在しうるみたいにな考えになりがちだと思うのですが、この世界の全部が図2だと思うと、自分の境界も曖昧だし、みんなが同じ形でいるとは限らないし、明日違う形になっているかもしれないし、つまり世界は繋がりでのみ成り立っている、と考えられると思います。人は一人では生きられませんから。そして人間だけでなく、全世界のものごとが関わり合いながら存在しているんです。
繋がりというとどうしても友達同士とか関係性のある人との繋がりしかないように思えるけれど、コロナで一度全世界が同じ問題に包まれたことで、世界規模の大きな繋がり方もあるんだということを実感しました。繋がりだけでなく距離感も変わりましたよね。オンラインでのコミュニケーションやSNSが加速したことで、世界の反対側の人と、親にもしないような親密な話ができるってこともわかったし、でも同時に隣の家の人とは会えないとか、SNS上で知らない人からいきなり暴言吐かれたりとか。人と人との距離のあり方がだいぶ変わりました。
Q:田村さんはアートトランスレーターとしてのお仕事を通して様々場面で人と人を繋げてきたと思います。言語の違いや文化の違い、考え方の違いなど人と人の間にある境界や違いを乗り越えていくために私たちにはどのようなコミュニケーションが必要になるでしょうか。
まず、みんな違うということを前提にする。そして分かり合えないかもしれないということも頭に入れておく。
やっぱり知らないこととか未知なることとか自分がよく分からないものって怖い、不安だと思う人が多いですよね。でも、みんな違うという前提でコミュニケーションをとれば、それが前提にあるので、不安に駆られて人を攻撃したりしなくて済むと思います。そして、分かり合えないかもしれない、もしかしたら自分には理解できないかもしれないけれども、それでオッケーと思うことですね。この人のことを分かるからOK、分からないからNGというように白黒つけようとしないということが大切だと思います。あとは想像力ですよね。自分の知らないところで、全く理解できないような正反対の人生を送っている人もいますよね。でもそれでいいんだという他者の人生に対しての想像力と寛容さ。分かるものしか受け入れられないとすごく大変なことになる。今もうすでに大変なことになってますけどね。こういったことが大事かなと思います。
最後に一言!
Q:表現者として生きる美大生や芸大生に一言お願いします。
AIってネット上とかから様々なデータをいっぱい集めて、そこからいろいろ作り出してくるじゃないですか。でも人間も同じで、結局自分の中から勝手に素晴らしいものが生まれてくるわけではなくて、どれだけ外から情報を入れたかってことだと思うんですよね。美大で作品とか作ってると、あなたは何がしたいんだとか、自分の中に何があるか考えてみろとか、あなたの何が特別なんだとか言われて、それに戸惑いを感じることもあると思います。でも、自分の中から無理して何か作り出さなくてもいいと思います。そういう話になると、珍しい体験をしている人勝ちみたいになっちゃうというか、マイノリティ性をすごく出さなきゃいけないと思ってしまったり、他と違うことを探しちゃうんですよね。例えばトラウマ的な体験とか突拍子もない体験とか家庭環境とか、そういうものを題材にしなきゃいけないって感じてしまうと思うんですけど、そうなってしまうと、そういう体験がない人にとっては「私はどうすればいいの?」となってしまう。なので、学生のうちは、外から情報を入れることの方が大事だと思います。自分の興味のあることを調べたり、見たり、聴いたり。自分の興味のあることすらわからなかったら、まずは自分と正反対のもの、一番遠いと思うものについて調べてみるのもいいかもしれません。あんまり自分の中から捻り出そうとしなくてもいいと思います。
若い時の吸収力はすごいので、使ったほうがいいですよ。脳みそは衰えていくばかりなので(笑)。私も通訳する時、脳みその回り方がだんだん旧式のMacみたいになってきているのを、日々実感しています(笑)。学生のうちは見聞きした物事を1番効率よく取り入れられる時間だと思うから、インプットを頑張ってほしいですね。
あとやっぱり大学生って時間あるんですよ。ほんとに大学生のうちは時間があるんです。仕事が始まったらほんとに時間がなくなっちゃいます。自分の中に何があるんだろうとかで悩みすぎずに、時間がある時にたくさんいろんなものを見てほしいです。頑張って!
(インタビュー:2023年6月)