マイ・ストーリー
玉城(たまき)俊一(しゅんいち)
たまき しゅんいち


ぼくはこんな(ひと)
 

 (あか)るい性格(せいかく)で、よく(わら)います。活動的(かつどうてき)で、いつも(なに)かやっていないと、もったいないと(おも)ってしまいます。やりたいと(おも)ったことは、すぐ実行(じっこう)(うつ)さないと()がすまない。そして、やるからには、中途半端(ちゅうとはんぱ)(きら)いで、(なん)でも一生懸命(いっしょうけんめい)やります。でも、余裕(よゆう)をもって、(たの)しみながらやることも(わす)れないようにしています。()きなことをやって(たの)しく()きていきたいし、後悔(こうかい)はしたくありません。そのためにひとつひとつ目標(もくひょう)をたててがんばっています。
 ぼくは、楽天的(らくてんてき)(なに)(かんが)えていないようにみえるかもしれません。でも、(じつ)はちょっとしたことで(ふか)(なや)んでしまうような、神経質(しんけいしつ)でおく(びょう)一面(いちめん)もあります。(ひと)()()になります。(なに)(かべ)にぶつかって、いろいろ(なや)んで、(かんが)えて、気持(きも)ちに整理(せいり)をつけて、(まえ)(すす)む。いつもその()(かえ)しです。本当(ほんとう)は、もうちょっと要領(ようりょう)よく()きたいと(おも)っているのですが、なかなかそうもいきません。それから、自分勝手(じぶんかって)で、(わす)れっぽい。(まえ)()()ったことを、翌日(よくじつ)はすっかり(わす)れていたりします。

 

おいたち
 

(ちい)さいころ
 ぼくは、1982(ねん)沖縄県(おきなわけん)※1那覇市(なはし)※3病院(びょういん)()まれました。ぼくの(いえ)がある伊是(いぜ)名島(なじま)※2には(ちい)さな診療所(しんりょうじょ)がひとつあるだけです。だから、伊是(いぜ)名島(なじま)(ひと)本島(ほんとう)病院(びょういん)出産(しゅっさん)します。
 (ちい)さいころのぼくは、とてもやんちゃで、(はは)()うことをちっともきかなかったようです。

小学生(しょうがくせい)のころ
 小学校(しょうがっこう)低学年(ていがくねん)のころは、内気(うちき)で、自分(じぶん)から積極的(せっきょくてき)行動(こうどう)したり、人前(ひとまえ)()たりするのが苦手(にがて)でした。自信(じしん)がなくて、(ひと)()をかなり()にしていたのかもしれません。
 小学(しょうがく)4年生(ねんせい)のときに、(ひと)(すす)められるまま、たばこを()うようになりました。最初(さいしょ)(かる)気持(きも)ちでした。でも、それをきっかけに、いつのまにか(わる)いことをする先輩(せんぱい)たちの仲間(なかま)になって、(みせ)(まん)()きをしたり、バイクや(くるま)(ぬす)んで()りまわしたりするようになっていました。(わる)いことをしているときは、正直言(しょうじきい)ってこわいという気持(きも)ちもありました。けれど、そういう(わる)いことをしてみたいという好奇心(こうきしん)みたいなものも(つよ)かったのだと(おも)います。それに、たとえやりたくないと(おも)っても、先輩(せんぱい)たちに(さか)らうことはできませんでした。(はは)は、ぼくの行動(こうどう)()づいて、(きび)しくしかったり、わざとつきはなしてみたり、必死(ひっし)(わる)いことをやめさせようとしました。でも、ぼくは(なに)()われても(くち)ごたえばかりして、(はは)()うことをきこうとしませんでした。こんな状態(じょうたい)中学(ちゅうがく)2年生(ねんせい)くらいまで(つづ)きました。

中学生(ちゅうがくせい)のころ
 中学(ちゅうがく)2年生(ねんせい)のとき、ぼくは伊是名(いぜな)尚円(しょうえん)太鼓(だいこ)という太鼓(たいこ)グループに(はい)りました。尚円(しょうえん)太鼓(だいこ)練習(れんしゅう)(よる)にあるので、メンバーになれば(よる)(どう)々と(あそ)ぶことができるという安易(あんい)動機(どうき)でした。ところが、尚円(しょうえん)太鼓(だいこ)のメンバーたちは真剣(しんけん)音楽(おんがく)()りくんでいました。そんなメンバーたちに刺激(しげき)をうけて、ぼくも真剣(しんけん)音楽(おんがく)()りくむうち、音楽(おんがく)(たの)しさを(かん)じるようになったのです。(はは)影響(えいきょう)もあって(ちい)さいころから(うた)()きでしたが、このときからシンガー・ソング・ライターになりたいというはっきりした(ゆめ)をもつようになりました。
 それと同時(どうじ)に、(わる)いことをやめたいと(おも)うようになりました。でも、なかなかやめることができずにいました。そんなある(よる)(とも)だちに(さそ)われて、(くるま)(ぬす)み、ドライブに()かけました。その(くるま)にはターボエンジンがついていて、アクセルを()むとすぐにスピードが()ました。ぼくたちは時速(じそく)120キロメートルのスピードでカーブに()っこんでいきました。そして、そのカーブを()がりきれず、(くるま)横転(おうてん)してしまいました。(さいわ)いにも、2人(ふたり)ともけがはしなかったけれど、かなりこわい(おも)いをしました。そのとき、「もう絶対(ぜったい)(わる)いことはしない」と自分(じぶん)(ちか)い、たばこや(ぬす)み、そのほか(わる)いことはすべてやめました。(おや)(たい)しても反抗(はんこう)ばかりしていたけれど、「(なに)もできないくせに反抗(はんこう)ばかりしてたら、ただのあほやっさ。まず、ちゃんとやるべきことをやろう」と(かんが)えました。
 ぼくは、たとえそれが昨日(きのう)までやってきたこととまったく(ちが)うことであっても、あるひとつの方向(ほうこう)()かって猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)するようなところがあります。このときも、音楽(おんがく)やサッカー()練習(れんしゅう)熱中(ねっちゅう)するようになりました。また、中学(ちゅうがく)3年生(ねんせい)のときには、推薦(すいせん)※4高校(こうこう)合格(ごうかく)したあと、(おな)じように推薦(すいせん)入学(にゅうがく)()まった同級生(どうきゅうせい)たちに()びかけて「LittleTeacher」というグループをつくり、これから入試(にゅうし)をうける同級生(どうきゅうせい)たちに科目(かもく)分担(ぶんたん)して(おし)えました。どういうポイントを(おし)えたらいいか、どうやって(おし)えたらいいか、あらかじめ先生(せんせい)たちに()き、きちんと準備(じゅんび)をしてから(おし)えました。

 
 

高校(こうこう)生活(せいかつ)
 

南風原(はえばる)高校(こうこう)
 沖縄(おきなわ)大小(だいしょう)160の島々(しまじま)()りたっていて、そのうち(ひと)()んでいる(しま)は50くらいです。高校(こうこう)がある(しま)沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)(ふく)めて3(とう)だけで、ほとんどの(しま)には高校(こうこう)がありません。伊是(いぜ)名島(なじま)にも高校(こうこう)がないので、伊是(いぜ)名島(なじま)()どもたちは中学校(ちゅうがっこう)卒業(そつぎょう)すると本島(ほんとう)高校(こうこう)入学(にゅうがく)します。ぼくも、那覇市(なはし)のすぐ(となり)南風原町(はえばるちょう)にある県立(けんりつ)南風原(はえばる)高校(こうこう)(かよ)うことになりました。伊是(いぜ)名島(なじま)から南風原町(はえばるちょう)まで、(ふね)とバスを()りついで4時間(じかん)以上(いじょう)かかります。伊是名(いぜな)から(かよ)うことはとてもできないので、那覇(なは)のおば((ちち)(あね))の(いえ)下宿(げしゅく)しています。
 南風原(はえばる)高校(こうこう)には、郷土(きょうど)文化(ぶんか)コース、文理(ぶんり)コース、体育(たいいく)コース、教養(きょうよう)コース※5があります。ぼくが南風原(はえばる)高校(こうこう)(はい)りたいと(おも)ったのは、郷土(きょうど)文化(ぶんか)コースがあったからです。郷土(きょうど)文化(ぶんか)コースでは、数学(すうがく)英語(えいご)など一般的(いっぱんてき)科目(かもく)のほかに、琉歌(りゅうか)※6沖縄(おきなわ)のことば、三線(さんしん)※7琉球(りゅうきゅう)舞踊(ぶよう)琉球(りゅうきゅう)空手(からて)沖縄(おきなわ)歴史(れきし)などについて勉強(べんきょう)します。高校(こうこう)沖縄(おきなわ)芸能(げいのう)歴史(れきし)勉強(べんきょう)すれば、将来(しょうらい)自分(じぶん)音楽(おんがく)をつくっていくうえで(やく)にたつだろうと(かんが)えました。

伊是名(いぜな)とのギャップに(くる)しむ
 那覇(なは)()み、南風原(はえばる)高校(こうこう)(かよ)うようになってすぐ、伊是名(いぜな)にいるときには経験(けいけん)したことのない居心地(いごこち)(わる)さを(つよ)(かん)じるようになりました。伊是名(いぜな)にいたころは、だれとでも(とも)だちのようにオープンに(した)しく(はなし)をし、いつも(こころ)(こころ)でふれあっているという感覚(かんかく)がありました。伊是名(いぜな)では、それがあたりまえのことで、とくに意識(いしき)もしていませんでした。でも、ここに()てから、相手(あいて)距離(きょり)をおき、自分(じぶん)本心(ほんしん)(ちが)うことを(はな)(ひと)(おお)いのにショックをうけました。人口(じんこう)(おお)いせいなのかもしれません。
 南風原(はえばる)高校(こうこう)では、生徒(せいと)たちのノリが(わる)いし、ムードが(くら)いと(かん)じました。(たの)しくやろうと(おも)えばできるのに、だれもそうしようとしない。(しま)にいたときと(おな)じように(たの)しくしたいと(おも)って、いろいろやればやるほど、自分(じぶん)(まわ)りからういていくのを(かん)じました。なかでも、いちばんショックだったのは、ぼくが(とも)だちだと(おも)っていた(ひと)たちまでもが、本音(ほんね)(ちが)うことを(はな)しているということでした。その(ひと)たちのことばを素直(すなお)(しん)じて行動(こうどう)したのに、それを否定(ひてい)されたり、全然(ぜんぜん)(ちが)うことを()われたりしました。そういうことが何度(なんど)(つづ)き、だんだん(ひと)(しん)じられなくなっていきました。「(ひと)(わる)いところ、いやなところをこれ以上(いじょう)みたくない。もう(ひと)とあまりかかわりたくない」と(おも)うようになってしまいました。
 ぼくは、(あか)るくて(ひと)づきあいが得意(とくい)そうにみえるかもしれません。でも、(いま)でも初対面(しょたいめん)(ひと)(はな)すのはこわいと(おも)ってしまいます。うわべだけの会話(かいわ)をすることも(おお)くなりました。「人間(にんげん)ってむずかしい」と(かん)じます。それでも最近(さいきん)は、三線(さんしん)仲間(なかま)など、信頼(しんらい)して本音(ほんね)でつきあえる友人(ゆうじん)たちもできてきました。

生徒(せいと)会長(かいちょう)経験(けいけん)して
 2年生(ねんせい)になるころには、もう学校(がっこう)をやめたいとまで(おも)いつめていました。でも、あれこれ(おも)(なや)んでいくうちに、ここでやめても(なん)にもならないという気持(きも)ちがわきあがってきました。「だったら、生徒(せいと)会長(かいちょう)になって、自分(じぶん)でこの学校(がっこう)(あか)るく(たの)しい学校(がっこう)()えよう!」と(おも)いなおしました。そして、生徒(せいと)会長(かいちょう)選挙(せんきょ)立候補(りっこうほ)して当選(とうせん)し、2年生(ねんせい)の2学期(がっき)から1年間(ねんかん)生徒(せいと)会長(かいちょう)をつとめることになったのです。
 生徒(せいと)会長(かいちょう)になってから、みんなをまとめていく立場(たちば)のむずかしさを()りました。1人(ひとり)ひとりの気持(きも)ちを大事(だいじ)にしたいけれど、(なに)かを実行(じっこう)するとき全員(ぜんいん)意見(いけん)反映(はんえい)させるのはむずかしい。自分(じぶん)意見(いけん)()えば、(ちが)意見(いけん)(ひと)たちから反感(はんかん)をかう。そんなことを(かんが)えていると、どんどんおく(びょう)になって、(なに)実行(じっこう)(うつ)せなくなります。でも、(とも)だちに「おまえバカかっ! 本当(ほんとう)学校(がっこう)()えたいなら、(ひと)(きら)われる覚悟(かくご)でやれっ!!」と(はげ)まされたりしながら、(なん)とかやっています。
 (いま)でもときどき(なや)むことはありますが、「ここで挫折(ざせつ)したら、もとのまんま。前向(まえむ)きにやんなきゃ」と(おも)うようにしています。みんなにとっていちばんいいと(おも)うことを実現(じつげん)するために、これからはもっと意志(いし)(つよ)くもって()りくむつもりです。「ま、ちょっとくらい(きら)われてもいいか」と、気楽(きらく)にかまえるようにしたいと(おも)います。

音楽(おんがく)について
 ぼくの生活(せいかつ)中心(ちゅうしん)音楽(おんがく)です。ギターや三線(さんしん)(きょく)をつくって(うた)ったり、授業(じゅぎょう)部活(ぶかつ)沖縄(おきなわ)古典(こてん)音楽(おんがく)民謡(みんよう)(なら)ったり、伊是名(いぜな)尚円(しょうえん)太鼓(だいこ)のメンバーとして活動(かつどう)したりしています。どの活動(かつどう)()きで、一生懸命(いっしょうけんめい)やっています。もちろん、それぞれ(ちが)うジャンルの音楽(おんがく)なのですが、ぼくには、これは伝統(でんとう)音楽(おんがく)、これは太鼓(たいこ)、これはギターの(きょく)()けて(かんが)えることができません。つきつめれば(おな)じ「音楽(おんがく)」をやっているわけだし、ぼくにとってはすべてが「音楽(おんがく)」なのです。
 ぼくがめざしているのは、自分(じぶん)経験(けいけん)をいかして、独自(どくじ)(おと)やリズムをつくりだすことです。たとえば、(うし)()(こえ)1頭1頭(いっとういっとう)(ちが)います。ある(うし)は、「モーッ」と()くかもしれないし、ある(うし)は、「モオオウッ」と()くかもしれません。(おな)じように、(ひと)がもっている(おと)やリズムは1人(ひとり)ひとり(ちが)うと(おも)います。沖縄(おきなわ)古典(こてん)音楽(おんがく)民謡(みんよう)には楽譜(がくふ)(あらわ)せない部分(ぶぶん)があります。(おな)(きょく)表現(ひょうげん)していても、(ひと)によって微妙(びみょう)(ちが)いがあったりします。その(ちが)いが、1人(ひとり)ひとりの()(あじ)であり、理論(りろん)技術(ぎじゅつ)では()みだすことのできないものだと(おも)います。ぼくは、自分(じぶん)感性(かんせい)大事(だいじ)にしながら、自分(じぶん)(おも)いを音楽(おんがく)のなかで自由(じゆう)表現(ひょうげん)していきたいと(おも)っています。
 音楽(おんがく)は、ぼくにいろいろな機会(きかい)(あた)えてくれます。今年(ことし)(なつ)伊是(いぜ)名島(なじま)で「いぜな尚円(しょうえん)まつり」があり、尚円(しょうえん)太鼓(だいこ)出演(しゅつえん)しました。ぼくは(あたら)しい(きょく)をつくり、その演出(えんしゅつ)担当(たんとう)しました。(きょく)をつくりあげていくこと以上(いじょう)にむずかしかったのは、(ひと)をまとめていくことでした。1人(ひとり)ひとりのことを(かんが)えすぎると、優柔不断(ゆうじゅうふだん)になったり、弱気(よわき)になったりします。でも、みんなでいい演奏(えんそう)をするためには、(すこ)強引(ごういん)なくらいのリーダーシップも必要(ひつよう)だと(かんが)えるようにしました。その結果(けっか)本番(ほんばん)()けてベストを()くすことができたと(おも)います。たぶん、生徒会(せいとかい)郷土(きょうど)芸能部(げいのうぶ)活動(かつどう)経験(けいけん)したことも(やく)にたったのでしょう。(まつ)りまでの過程(かてい)はしんどかったし、本番(ほんばん)演奏(えんそう)(かなら)ずしも満足(まんぞく)のいくものではなかったけれど、自分(じぶん)にとってプラスになるいい経験(けいけん)だったと(おも)います。

 

将来(しょうらい)について
 

 シンガー・ソング・ライターになろうという(おも)いは、中学生(ちゅうがくせい)のときから()わりません。これまで、高校(こうこう)卒業(そつぎょう)したらすぐシンガー・ソング・ライターになろうとか、アメリカの大学(だいがく)留学(りゅうがく)して本格的(ほんかくてき)音楽(おんがく)勉強(べんきょう)しようとか、いろいろ(かんが)えてきました。でも、気持(きも)ちだけがからまわりして、ちょっと現実味(げんじつみ)()けているところもありました。目標(もくひょう)があるからこそ、「あれもこれもやらなきゃ。でも、時間(じかん)()りない!」と、あせっていたんだと(おも)います。(いま)は、「音楽(おんがく)一生(いっしょう)やっていくんだったら、あせらなくてもいいや」と(かんが)えています。地元(じもと)芸術(げいじゅつ)大学(だいがく)なら、沖縄(おきなわ)古典(こてん)音楽(おんがく)勉強(べんきょう)(つづ)けられるし、クラシックも勉強(べんきょう)できるし、海外(かいがい)公演(こうえん)にも()けます。その大学(だいがく)受験(じゅけん)しようかなと(おも)っています。

 

家族(かぞく)(とも)だち
 

■ぼくの家族(かぞく)
 身近(みぢか)すぎて、いてもいなくても(おな)じように(おも)えるけれど、どこかでぼくの(おお)きな(ささ)えになっていると(かん)じます。とくに、親元(おやもと)(はな)れて学費(がくひ)生活費(せいかつひ)仕送(しおく)りしてもらうようになってからは、(おや)のありがたさやたいへんさがわかるようになりました。自分(じぶん)1人(ひとり)()きているのではないということを実感(じっかん)しています。「仕事(しごと)をしてお(かね)(かせ)ぎ、()どもを6(にん)(そだ)てているなんて、本当(ほんとう)にすごいなあ。感謝(かんしゃ)しなくっちゃ」と(おも)っています。ぼくは6(にん)兄弟(きょうだい)長男(ちょうなん)ですが、(おとうと)たちのことはあまり心配(しんぱい)していません。(こころ)がくさっているやつはいないので、ぼくがとやかく()わなくてもだいじょうぶだと(おも)っています。

■ぼくの(とも)だち
 うわべではなく本音(ほんね)でつきあえる(とも)だちは、ぼくにとって絶対(ぜったい)必要(ひつよう)存在(そんざい)です。そういう(とも)だちとは、(くる)しみや(たの)しみをともに()かちあうことができます。彼女(かのじょ)(わか)れたりしたときも、(とも)だちはそばにいてくれます。そういう意味(いみ)でも(とも)だちは大切(たいせつ)存在(そんざい)です。でも、本当(ほんとう)はぼくの(まわ)りの(ひと)すべてが大切(たいせつ)なんだと(おも)います。ぼくは(まわ)りの(ひと)から(ささ)えられて()きているし、どんなにいやな(ひと)でも、どこかでぼくの(ちから)になってくれているはずです。そう(かんが)えるようになったのは、舞台(ぶたい)活動(かつどう)などを経験(けいけん)して、自分(じぶん)(ちから)だけでできることはとても(すく)なくて、本当(ほんとう)にいいものは自分(じぶん)1人(ひとり)だけの(ちから)では絶対(ぜったい)にできない、ということを(まな)んだからです。
 恋愛(れんあい)は、(ひと)(ひと)とがつきあうわけだから、(かなら)ずぶつかったり、お(たが)いのいやな(めん)がみえてきたりすると(おも)います。でも、そういうところもひっくるめてお(たが)いに(あい)しあうことができればいいなと(おも)います。相手(あいて)は、ぼくを理解(りかい)しようと努力(どりょく)してくれる(ひと)、そして(わる)いところは(わる)いと()ってくれる(ひと)がいいです。お(たが)いに(たか)めあいつつも、いっしょにいて()ちつける関係(かんけい)理想(りそう)です。

 

ぼくの(しま)伊是(いぜ)名島(なじま)
 

 伊是(いぜ)名島(なじま)沖縄(おきなわ)北部(ほくぶ)にあって、フランスを(ちい)さくしたような(かたち)をしています。周囲(しゅうい)(やく)18キロメートル、人口約(じんこうやく)2,000(にん)(ちい)さな(しま)です。第二(だいに)(しょう)()王朝(おうちょう)※8(ひら)いた尚円王(しょうえんおう)※9()まれた土地(とち)で、(しま)(ひと)はそれをとても(ほこ)りに(おも)っています。
 夏休(なつやす)みや冬休(ふゆやす)みのほか、尚円(しょうえん)太鼓(たいこ)のイベントがあるときなど、(ねん)に10(かい)くらい伊是名(いぜな)(かえ)ります。伊是名(いぜな)自然(しぜん)のなかにいると、(こころ)(やす)らぎます。那覇(なは)()(そら)はせまく(かん)じるけれど、伊是名(いぜな)(そら)無限(むげん)(ひろ)がっているように(おも)えます。(はま)1人(ひとり)(そら)()あげていると、だれもいない自分(じぶん)だけの世界(せかい)(かん)じます。(なみ)(おと)(かぜ)のそよぐ(おと)(とり)のさえずる(こえ)()いたりしていると、いろいろなイメージが(あたま)にうかんできます。そのイメージを(きょく)にすることもあります。伊是名(いぜな)(ちい)さな(しま)です。でも、そこにはとても(おお)きな世界(せかい)(ひろ)がっているように(かん)じられます。伊是名(いぜな)(ゆた)かな自然(しぜん)がそう(かん)じさせるのかもしれません。ぼくは、ものごとを(おお)きくとらえたいし、スケールの(おお)きな音楽(おんがく)をつくりたいと(おも)っているので、伊是名(いぜな)の「(おお)きな世界(せかい)」はとても魅力的(みりょくてき)です。
 将来(しょうらい)(しま)(かえ)るかどうか、(いま)はまだわかりません。(おや)は、「()きなことをやればいいよ」と()ってくれています。太鼓(たいこ)(つづ)けていくなら、尚円(しょうえん)太鼓(だいこ)(ひと)たちとやりたいなあと(おも)います。

 

シュンイチってどんな人?
 

■お(かあ)さん
 (ちい)さいころから(ひと)(たい)する偏見(へんけん)がほとんどなくて、(みち)(ひと)()うとだれにでも気軽(きがる)にあいさつする()でした。おじい、おばあにもよくかわいがられていました。(すこ)()わったところもありましたね。いつだったか、近所(きんじょ)(いえ)を「(こわ)れたテレビはありませんか」と(たず)ねてまわっていたことがありました。俊一(しゅんいち)(こわ)れたテレビがあったら(なお)してあげようと(おも)っていたみたいです。でも、(まわ)りの(ひと)たちは、俊一(しゅんいち)がテレビを()しがっているって勘違(かんちが)いしたでしょうね。そのころ、近所(きんじょ)にあんまり評判(ひょうばん)のよくないおじいがいました。みんなはそのおじいのことをよく()わなかったけど、俊一(しゅんいち)は、「あの(ひと)は、本当(ほんとう)はいい(ひと)だよ」ってずっと()ってました。そしたら、ある()、そのおじいが、「いらなくなったから」とテレビを()ってきてくれたんですよ。
 小学校(しょうがっこう)高学年(こうがくねん)から中学(ちゅうがく)2年生(ねんせい)くらいまで、ものすごい反抗期(はんこうき)でした。たばこを()ったり、()(あそ)びをしたり。いちばん(うえ)()なので、(おとうと)たちのためにも(みち)をふみはずさせてはいけないと必死(ひっし)でした。夜中(よなか)部屋(へや)をこっそり()けださないように、()ども部屋(へや)のドアを(こわ)して()てたこともあるんですよ。
 俊一(しゅんいち)は、もともと、ひとつのことに猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)するタイプ。(いま)は、エネルギーがいい方向(ほうこう)()いているから、このまま、間違(まちが)った方向(ほうこう)にエネルギーを()けることなく(すす)んでいってくれたらいいなと(おも)っています。(ひと)迷惑(めいわく)さえかけなければ、(なん)でもやってみればいいと(おも)うんです。失敗(しっぱい)しても、いい経験(けいけん)ですから。(TS-P09参照(さんしょう)。)

(とも)だちのはやと
 俊一(しゅんいち)は、(あか)るくて、とても素直(すなお)です。(はじ)めて()(ひと)ともすぐにうちとけます。精神的(せいしんてき)に、ちょっと(よわ)いところもありますね。たぶん、ものごとをまじめにとらえすぎるせいです。それがいいところでもあるんだけど、(なん)でもまじめに(かんが)えすぎて、適当(てきとう)息抜(いきぬ)きをするということができないんですよね。
 俊一(しゅんいち)は、(とも)だちだけど、音楽(おんがく)(かん)してはライバル。お(たが)いにいい刺激(しげき)(あた)えあう関係(かんけい)です。俊一(しゅんいち)は、(かんが)えかたも独特(どくとく)なところがありますが、音楽(おんがく)でもぼくが(おも)いつかないような発想(はっそう)(きょく)をつくったりします。ぼくは沖縄(おきなわ)古典(こてん)音楽(おんがく)しか()らなかったので、俊一(しゅんいち)から(まな)ぶことが(おお)いです。これから、2人(ふたり)沖縄(おきなわ)古典(こてん)音楽(おんがく)をベースにR&Bなどを()りいれた(あたら)しい音楽(おんがく)づくりにチャレンジしようと(おも)っています。 ぼくたちは、自分(じぶん)たちにしかつくれない音楽(おんがく)をつくりたいという共通(きょうつう)(ゆめ)をもっています。俊一(しゅんいち)がこれからどうやっていくかは(かれ)()めることだけど、これからもいいライバルとして、ぼくに()けない(おお)きな(ゆめ)をもってがんばってほしいです。(TS-P11参照(さんしょう)。)

尚円(しょうえん)太鼓(たいこ)のメンバー
A「メンバー(いち)のハイテンションなやつ」
「そうです!!」

B(きょく)もつくれる、なくてはならない存在(そんざい)
「あったりまえじゃーん!」

C()わってるけど、本音(ほんね)でしゃべるいいやつ」
本音(ほんね)をさらけださなきゃ、(ひと)感動(かんどう)させる音楽(おんがく)なんてできないよー!!」

D「みんなをまとめて、()っぱっていく(ちから)がある」
「そういう(ちから)をつけることを目標(もくひょう)にしている。でも、みんなを()っぱっていくのはたいへんなことだと(おも)う」
TS-P12参照(さんしょう)。)

 

(ちゅう)
 

※1
日本(にほん)最南端(さいなんたん)最西端(さいせいたん)位置(いち)する。東西(とうざい)1,000km、南北(なんぼく)400kmにおよぶ広大(こうだい)海域(かいいき)点在(てんざい)する大小(だいしょう)160の島々(しまじま)構成(こうせい)され、そのうち有人(ゆうじん)(とう)は50。日本(にほん)唯一(ゆいいつ)亜熱帯(あねったい)海洋性(かいようせい)気候(きこう)(ぞく)する。1429(ねん)尚巴志(しょうはし)第一(だいいち)(しょう)()王朝(おうちょう)をひらいてから、1879(ねん)明治(めいじ)政府(せいふ)沖縄県(おきなわけん)設置(せっち)第二(だいに)(しょう)()王朝(おうちょう)崩壊(ほうかい)するまでの450年間(ねんかん)琉球(りゅうきゅう)王国(おうこく)として存続(そんぞく)した。14世紀(せいき)から16世紀(せいき)にかけては、地理的(ちりてき)条件(じょうけん)をいかして中国(ちゅうごく)東南(とうなん)アジア諸国(しょこく)との交易(こうえき)(さか)んに(おこな)った。また、それらの国々(くにぐに)影響(えいきょう)をうけ、染織(せんしょく)漆器(しっき)陶器(とうき)風俗(ふうぞく)芸能(げいのう)など、沖縄(おきなわ)独特(どくとく)文化(ぶんか)(きず)いた。(だい)2()世界(せかい)大戦(たいせん)末期(まっき)には、地上戦(ちじょうせん)(おこな)われた。敗戦後(はいせんご)はアメリカによる占領(せんりょう)統治下(とうちか)にあったが、1972(ねん)日本(にほん)(へん)(かん)された。(けん)総面積(そうめんせき)の11%を米軍(べいぐん)基地(きち)()める。おもな産業(さんぎょう)は、観光業(かんこうぎょう)中心(ちゅうしん)とする(だい)3()産業(さんぎょう)人口(じんこう)(やく)1,325,000(2001(ねん))。地図(ちず)[GIF Image, PDF]参照(さんしょう)

※2
沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)北西(ほくせい)位置(いち)する(しま)第二(だいに)(しょう)()王朝(おうちょう)始祖(しそ)(しょう)(えん)(おう)生誕地(せいたんち)として()られ、名所(めいしょ)旧跡(きゅうせき)(おお)い。面積(めんせき)15.4km2人口(じんこう)(やく)2,000(2001(ねん))。おもな産業(さんぎょう)は、農業(のうぎょう)水産業(すいさんぎょう)地図(ちず)[GIF Image, PDF]参照(さんしょう)

※3
沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)南西部(なんせいぶ)(ひがし)シナ(かい)(めん)する県庁(けんちょう)所在地(しょざいち)琉球(りゅうきゅう)王国(おうこく)時代(じだい)から首都首里(しゅとしゅり)商港(しょうこう)として(さか)えた。1879(ねん)沖縄県(おきなわけん)設置(せっち)されて県庁(けんちょう)所在地(しょざいち)となった。沖縄県(おきなわけん)政治(せいじ)経済(けいざい)文化(ぶんか)交通(こうつう)中心(ちゅうしん)人口(じんこう)(やく)304,000(2001(ねん))。地図(ちず)[GIF Image, PDF]参照(さんしょう)

※4
通常(つうじょう)学科(がっか)試験(しけん)を行わずに、中学(ちゅうがく)校長(こうちょう)推薦(すいせん)内申書(ないしんしょ)面接(めんせつ)小論文(しょうろんぶん)学業(がくぎょう)以外(いがい)実績(じっせき)(スポーツ(など))などにもとづいて高校(こうこう)入学(にゅうがく)判断(はんだん)する入試(にゅうし)制度(せいど)

※5
南風原(はえばる)高校(こうこう)は、普通科(ふつうか)文理(ぶんり)体育(たいいく)郷土(きょうど)文化(ぶんか)教養(きょうよう)の4つのコースを(もう)けている。郷土(きょうど)文化(ぶんか)コースでは、「沖縄(おきなわ)歴史(れきし)」「琉歌(りゅうか)方言(ほうげん)」などの必修(ひっしゅう)科目(かもく)のほか、「琉球(りゅうきゅう)舞踊(ぶよう)」「古武術(こぶじゅつ)」「(さん)(しん)」を選択(せんたく)科目(かもく)として履修(りしゅう)する。

※6
(あま)()沖縄(おきなわ)宮古(みやこ)八重山(やえやま)諸島(しょとう)伝承(でんしょう)される叙情的(じょじょうてき)短詩形(たんしけい)歌謡(かよう)総称(そうしょう)上句(かみく)8・8、下句(しもく)8・6の30(おん)からなる定型(ていけい)短詩(たんし)主流(しゅりゅう)俳句(はいく)和歌(わか)(ちが)い、琉歌(りゅうか)(さん)(しん)にのせて(うた)うウタとして発展(はってん)してきた。

※7
沖縄(おきなわ)(あま)()諸島(しょとう)方面(ほうめん)使(つか)われる(はつ)弦楽器(げんがっき)。15世紀(せいき)から16世紀(せいき)前半(ぜんはん)中国(ちゅうごく)から(つた)わったとされる。沖縄(おきなわ)古典(こてん)音楽(おんがく)民謡(みんよう)伴奏(ばんそう)楽器(がっき)として(ひろ)(あい)(こう)されている。

※8
●1429(ねん)尚巴志(しょうはし)(きず)いた第一(だいいち)(しょう)()王朝(おうちょう)についで、(しょう)(えん)が1470(ねん)にひらいた王朝(おうちょう)。1879(ねん)日本(にほん)政府(せいふ)琉球(りゅうきゅう)王国(おうこく)廃止(はいし)沖縄県(おきなわけん)設置(せっち)宣言(せんげん)するまで、(やく)400年間(ねんかん)(つづ)いた。

※9
●1415~76(ねん)第二(だいに)(しょう)()王朝(おうちょう)始祖(しそ)伊是名(いぜな)(じま)出身(しゅっしん)

※10
●2000(ねん)7(がつ)に、沖縄県(おきなわけん)福岡県(ふくおかけん)宮崎県(みやざきけん)(かい)(さい)された。沖縄県(おきなわけん)名護市(なごし)では主要(しゅよう)8ヵ国(かこく)首脳(しゅのう)会議(かいぎ)(おこな)われた。

※11
●2000(ねん)7(がつ)九州(きゅうしゅう)沖縄(おきなわ)開催(かいさい)された九州(きゅうしゅう)沖縄(おきなわ)サミットに(さき)だち、(どう)(ねん)6(がつ)沖縄県(おきなわけん)開催(かいさい)されたG8高校生(こうこうせい)サミット。平和(へいわ)環境(かんきょう)経済(けいざい)について、各国(かっこく)若者(わかもの)たちが()(けん)(こう)(かん)(おこな)った。

※12
給食(きゅうしょく)調理室(ちょうりしつ)()たない(しょう)(ちゅう)(がっ)(こう)(など)のために、地域(ちいき)給食(きゅうしょく)センターが昼食(ちゅうしょく)調理(ちょうり)各校(かくこう)配達(はいたつ)する。

※13
うちなーぐち(沖縄(おきなわ)のことば)で(えん)じる(たい)(しゅう)(えん)(げき)

※14
沖縄県(おきなわけん)那覇市首里(なはししゅり)にある旧琉球(きゅうりゅうきゅう)王城(おうじょう)。1406(ねん)(しょう)()()沖縄(おきなわ)の3つの小国家(しょうこっか)のひとつ、中山(ちゅうざん)攻略(こうりゃく)して以後(いご)琉球(りゅうきゅう)(こく)支配(しはい)中心地(ちゅうしんち)となり、1879(ねん)まで(しょう)()()王統(おうとう)7(だい)(しょう)(えん)王統(おうとう)19(だい)居城(きょじょう)であった。(だい)2()()(かい)(たい)(せん)(まっ)()に、爆撃(ばくげき)により木造(もくぞう)建造物(けんぞうぶつ)(かい)(じん)()した。1992(ねん)復元(ふくげん)された部分(ぶぶん)首里城(しゅりじょう)公園(こうえん)として開園(かいえん)。2000(ねん)には、ユネスコの世界(せかい)遺産(いさん)登録(とうろく)された。

※15
●6(がつ)23(にち)(だい)2()()(かい)(たい)(せん)(まっ)()沖縄戦(おきなわせん)中心(ちゅうしん)とする戦没者(せんぼつしゃ)(れい)(なぐさ)める()で、沖縄県(おきなわけん)(こう)休日(きゅうび)となっている。1945(ねん)のこの()沖縄(おきなわ)における日本軍(にほんぐん)組織的(そしきてき)戦闘(せんとう)終結(しゅうけつ)した。

※16
(だい)2()世界(せかい)大戦(たいせん)末期(まっき)に、沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)とその周辺(しゅうへん)島々(しまじま)(おこな)われた(にち)(べい)(せん)(とう)。アメリカ(ぐん)は1945(ねん)4(がつ)沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)上陸(じょうりく)島中(とうちゅう)南部(なんぶ)日本軍(にほんぐん)(はげ)しい(こう)(ぼう)(てん)(かい)し、住民(じゅうみん)(ふく)(やく)20万人(まんにん)犠牲者(ぎせいしゃ)()した。日本(にほん)軍司令官(ぐんしれいかん)自決(じけつ)により、(ぐん)組織的(そしきてき)抵抗(ていこう)は6(がつ)23(にち)終了(しゅうりょう)した。

※17
(だい)2()()(かい)(たい)(せん)(まっ)()沖縄(おきなわ)看護婦(かんごふ)助手(じょしゅ)として強制(きょうせい)同然(どうぜん)志願(しがん)させられ、多数(たすう)犠牲者(ぎせいしゃ)()した県立(けんりつ)第一(だいいち)高等(こうとう)女学校(じょがっこう)沖縄(おきなわ)師範(しはん)学校(がっこう)女子部(じょしぶ)職員(しょくいん)生徒(せいと)からなる学徒隊(がくとたい)

※18
(かん)づめのポークの薄切(うすぎ)りを()き、(しお)(あじ)()けした卵焼(たまごや)きとキャベツの千切(せんぎ)りをそえた沖縄(おきなわ)料理(りょうり)

※19
高校生(こうこうせい)創造(そうぞう)活動(かつどう)向上(こうじょう)相互(そうご)理解(りかい)(ふか)めることをねらいとして、芸術(げいじゅつ)文化(ぶんか)活動(かつどう)発表(はっぴょう)(おこな)(こう)(こう)(せい)(さい)(てん)演劇(えんげき)部門(ぶもん)美術(びじゅつ)工芸(こうげい)部門(ぶもん)郷土(きょうど)芸能(げいのう)部門(ぶもん)写真(しゃしん)部門(ぶもん)などに()かれ、毎年(まいとし)開催(かいさい)される。文化庁(ぶんかちょう)などが主催(しゅさい)