佐賀大学で日本語を教えている布尾勝一郎(ぬのお・かついちろう)さん。新聞記者から発展途上国を旅するバックパッカーとなり、さらには日本語教師に転身。運命の分かれ道となった、海外での出会いとは......。
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◎辺境で出会った日本語教科書
「へえ。日本語の教科書って、こんなふうになっているのか」
日本語の教科書を初めて見たのは、メキシコ南部の地方都市、オアハカに滞在中のことだった。当時、私は新聞記者の仕事を辞めて、学生時代の旅の続きのようなことをしていた。学生時代の南米の旅は、言葉がわからなくてどうも消化不良だった。だから、今度はスペイン語が学びたかった。
安いスペイン語学校に入学したところ、先生たちの教え方が、どうも怪しい。町のものを指さして、単語を繰り返すようにと言うばかり。説明もあいまいだ。こんなところにお金をかけてはいられない。そこで地元の大学で日本語を学んでいるメキシコ人学生を自力で探して、スペイン語を教えてもらう代わりに、日本語を教えることになった。
「なかなか、しゃべれるようにならない」。そう悩むメキシコ人学生が見せてくれたのが、彼らが授業で使っている日本語の教科書だった。「スパナ」など工場で使う語彙が紹介されていて、大学生に適した内容だとは思えなかった。
◎旅の出会いがつながって
ふと思い出したのが、知人の日本語教師だった。タイに旅行中に出会ったのだが、偶然にも同じ高校の先輩だった。インドネシアで日本語を教えているという近況は聞いていた。
「こういう教科書って、普通なんですか?」
メキシコの片田舎から、ジャカルタにメールを送った。すると回答とともに、こんな返信があった。
「日本語教育に興味があったら、やってみる?」。
ちょうどバックパッカー生活も一年。次はどうしようかと思っていた。思い切って、インドネシアの私立大学の日本語専任講師に応募したところ、合格をもらった。同じ時期に、彼が卒業した大阪の大学院言語文化研究科に進もうと、アドバイスをもらいながら勉強した。こちらも合格できた。人の縁とはありがたい。
◎周辺からこそ見える気づき
変わった経歴だと、よく言われる。日本語教師の養成講座で学んでいないというコンプレックスはある。だから帰国後に、資格を取ろうと日本語教育能力検定試験を受験した。今年3月に博士論文も提出した。ただ、知識は技術になるけれど、「授業はこうしなきゃいけない」と凝り固まらないようにしたい。