声の広場:中高校生の声
 
日本語中文
2004年4月号
生きるということ

由东京都第4学区校长协会主办、国际文化交流中心协办的 “东京都内高中生意见发表会”于2004年3月召开。在此,我们给大家介绍在本届发表会上获得会场特别奖的迹见学园高中2年级的4位同学(鹿野佑美子、日下优里、八贺仁美、守屋久美子)的发言。鹿野等同学在初中3年级的时候,数学科任松平义昌老师突然因病住院,两个月之后不幸去世了。当时鹿野等同学正在澳大利亚的普通家庭里体验生活,所以没能参加松平老师的葬礼,就这样一直没能和老师正式告别,一晃1年的时光已经过去了。

 
日下: ある日、ある先生がこう言いました。「松平先生の死をただ、『瞬間的に悲しかった』だけで終わらせるのではなく、人が『死ぬ』ということを、そしてその反対の『生きる』ということを考えてほしい」。
八賀: 私たちは、この意見発表会で「生きる」という人生そのものを題材に取り上げることにして、みんなで意見を出し合う作業を開始しました。まず、「生きる」こと、「死ぬ」ことについて直感で答えてみました。
日下: 「生きるとは○○である」。○○に言葉を入れてください。
八賀: 目の前に存在すること!
鹿野: 何かを乗り越えていくこと!
守屋: 全く先の見えないこと!
日下: 「死ぬとは○○である」。○○に言葉を入れてください。
八賀: 信じられないこと!
鹿野: その存在が心の中に移ること!
守屋: 怖いこと!
日下: では、あと何年くらい生きられると思う?
八賀: 50年!
鹿野: 70年!
守屋: 100年!
鹿野: 松平先生は、また私たちに数学を教えてくれるつもりだったと思います。先生はきっと「生きる」というイメージを持って闘病生活に臨まれたと思っています。そこには「生きる」ということが大前提としてあったわけです。つまり、私たちは生まれたその瞬間から「死」に向かって歩いているにもかかわらず、「死」のイメージは持たないで生活している場合がほとんどです。
守屋: 「生きる」という前提の中で生活している一方で、生きることに疲れてしまうという現実もあります。これから何十年も生きていくのだというイメージがあるわりには、1年先のことはおろか、明日のことさえも苦しくなる時があります。特に、受験を前にして、来年のことを思うと気が遠くなる瞬間があります。
八賀: ほかの同世代の女の子はどう考えているのでしょう。私たちの学校の高校2年の、あるクラスにアンケートをとってみました。アンケートから見えてくるのは、「あと何十年か生きていたい」という思いはあるが、将来について漠然とした不安を抱えている人が多いということです。
鹿野: みんな大なり小なり「生きにくさ」を感じながら生きているのがよく分かりました。この「生きにくさ」にどういうふうに私たちは向き合えばいいのでしょうか。自分自身が、あるいは周囲の人が「ちょっぴり疲れちゃった」という時の心のビタミンを私たちなりに探してみることにしました。
日下: まず、私たちはいろいろな人の人生を見てみることにしました。「生きる」というテーマで私が気になっていた本があったので、それを全員で読んでみました。『たったひとつのたからもの』*1という本です。この本の主人公加藤秋雪君はダウン症で心臓に欠陥を持ち、1歳のお誕生日を迎えるのは難しいだろうと言われていました。歩くことはおろか、外出も控えるようにとさえ言われていました。秋雪君は6歳でその短い命を閉じることになりますが、幼稚園にも通い、運動会では立派に行進し、家族旅行にも何度も行っています。最後のお別れは悲しいのですが、読んでいくうちに自然と笑顔がこぼれるくらい、秋雪君は一生懸命で、楽しそうでした。秋雪君は「頑張って生きていこう」とか、そんなことは考えていないだろうけど、体一杯で生きている、そう感じました。本の中でお母さんの加藤治美さんがこう述べています。「人の幸せは、命の長さではないのです。今、現在を楽しく元気に過ごせたら、それが一番大切で喜ぶべきことだった。今の命を精一杯。病気の人に限らず、全ての人間に言えること」。まずは、この言葉を心のビタミンにしたいと思います。
八賀: 秋雪君は6歳の人生でしたが、次に、90歳を超え、今なお現役で活躍している人に注目してみました。日野原重明さんです。日野原さんが『五体不満足』*3の著者、乙武洋匡さんと対談している『65 27歳の決意・92歳の情熱』*2の中で次のように述べています。「『私たちはどう生きるべきか』なんて言うと哲学的に聞こえるけれど、『君の時間をどう使うか』という具体的な問題に翻訳するとよい」。この言葉には時間には終わりがあるという前提があります。その中でどれだけやれるか、ということをおっしゃっているように思います。ちなみに、乙武さんもその中で、先のことではなく、目の前にあることに全力で取り組んできたからこそ、次が開けたとおっしゃっています。限られた時間の中で一つ一つ目の前のことに向き合っていけるか。このことを2人の生の中から見てとれたような気がします。このことを二つめの心のビタミンにしたいと思います。
鹿野: ここに取り上げた3人は全く異なる環境にいる、あるいはいた人たちです。表現の違いはあるけれど、3人の根底に流れる生き様には大きな共通点があると思います。それは「一日一日を生きている」ということです。ものすごく当たり前で、ものすごくシンプルで、何も目新しいことはないのだけれど、このどうしようもなく普通なことに私たちはたどり着きました。私たちは常に大きく成長するものではありません。一日一日を一生懸命生きたって、それがすぐに何かを生み出すわけでもありません。ただ、ゼロではない。0.1だって0.00001だってかまわない、それだけ前に進むことを続けていけば、いつかは1になる。私はそう思うのです。そうやって私たちはこの限りある生を生きていくのだと思います。
守屋: 最後に、私たちにこのことを考えるチャンスをくれた松平先生へ。オーストラリアで先生が亡くなったのを聞いて、みんな「うそっ!」と言って泣きだした。私は泣かなかった。悲しくなかったということはないんだけど、実感がなかった。それから1年以上が過ぎているけど、お墓参りにも行っていません。去年の夏、命日にお墓参りに行こうかとも思ったけど、私はボランティアに行った。それが、その日私がやらなきゃいけないことだったからだよ。でも、それでよかったと思っています。これからも、こうやって一日一日をとにかくやってみるよ。それが今回、先生のことを通じて考えたことだからだよ。松平先生ありがとう。そして、さようなら。
 

*1 加藤治美著、文芸春秋、2003年
*2 中央法規出版、2003年