笑福亭鶴瓶師匠の一言がきっかけで向き合った、ご先祖様のことば。
学ぶほどにそのイメージは変わっていきました。韓国で高座に上がり韓国語で落語を披露したとき、笑福亭銀瓶さんの心に生まれた変化は......?
▼距離を縮めた日
2005年9月23日。私の人生で忘れてはいけない重要な日の一つ。私が初めて、韓国で、韓国人の前で、韓国語による落語を披露した日。場所は、ソウルにある同徳女子大学のホール。日本語を学ぶ女子大生、約200人の前で演じた。
私は在日コリアンとして生まれたが、民族学校ではなく日本の学校に通っていたため、韓国語が全く分からなかった。幼少期、親戚が集まった時、耳に入ってくる韓国語は、私にとって「やかましい」外国語であった。少しも興味が湧かなかった。
1988年春、弟子入りして間もない私に師匠・鶴瓶が聞いた。「お前、韓国語できるんか?」。なぜそんなことを尋ねるのか不思議だった。正直に「できません」と答えると、「ルーツの国の言葉なんやから、勉強したらどないや」と師匠が言い、その会話は終わった。
その後、結婚をして長男が生まれ、生涯日本で暮らしていくのだからと、私は日本国籍を取得した。私の頭の中に、韓国も韓国語もほとんど存在しなかった。
2001年、生まれて初めて韓国に。「ご先祖様の国に行ける」と私は楽しみだった。「感動して泣くかも」。勝手に期待したのだが、少しも感動せず、そこはやはり外国だった。とてつもなく「距離」を感じた。その時、入門当初の師匠との会話を思い出した。もし韓国語ができていたら、もっと違う感情を抱いたはず。その頃から韓国語を意識し始めた。
2004年、空前の韓流ブーム。様々な音楽、ドラマ、映画から聴こえてくる韓国語は、「やかましい」ものではなく「とても響きの美しい」言語。「やかましい」のは親戚だったのだ。
カラオケで「冬ソナ」の主題歌などを歌っているうちに「もっと話せるようになりたい」という欲求が芽生えてきた私は、その年の11月から独学で韓国語学習をスタート。「話せれば、距離が縮まるはずだ」という思いで。
しばらくすると、噺家としての欲が出てきた。「韓国語で落語をして、韓国人を楽しませたい」。
多くの日本人、韓国人のご協力のもと、ついにその日がきた。私も一所懸命に稽古して備えた。その瞬間の全てを舞台で吐き出した。
学生たちの笑い声を聞きながら「少しだけど、距離が縮まった」と感じた日。
それが私の「りんご記念日」。